6 怨霊鎮魂の神社を巡る
- Hase Mac
- 2023年6月3日
- 読了時間: 7分
更新日:2023年6月24日
地下鉄烏丸線今出川駅を降り、今出川通をおよそ1km程、西に進むと、北側に「白峯神宮」がある。天皇が京都に居られた時に建立(正確には創建宣命)された、最後(多分)の「神社(神宮)」である。
では最初の神社はどこか、794年、平安京に遷都するにあたって、桓武天皇の勅願により建立された御霊神社(現在の上御霊神社)であろう。
共通点は何か、どちらも非業の死を遂げた怨霊を鎮める神社である。

上御霊神社は、地下鉄烏丸線鞍馬口駅の東、約200m、現在の京都御所の北、約1kmにある。遷都当時の内裏は、その中心を走っていた朱雀通りが、現在の千本通りと重なることから判るように、現在の御所より約2km程、西に位置していた。その内裏から見て北東(鬼門)の位置に、上御霊神社は建てられている。
上御霊神社には、桓武天皇が即位するために排除された「井上皇太后と他戸親王」、長岡京から京都へ遷都するきっかけとなる「早良親王」のほか3柱の神霊が祀られている。(のちに2柱が加わり、吉備真備も祀られる)上御霊神社のホームページには、「平安遷都にあたり延暦13年(794)桓武天皇さまが平安京の守り神として崇道天皇(早良親王)の御神霊をお祀りされたのが当神社のおこりです」とある。(詳しくは、不動氏の記述を)
一方、白峯神宮には、崇徳上皇が御祭神として祀られているが、崇徳がなぜ怨霊になったのか、なぜ時を経て明治の時代の直前になって、京都で祀る必要があったのか・・・。
上御霊神社を出発し、白峯神宮を目指して歩く
上御霊から、金閣、銀閣を境外塔頭に持つ相国寺の境内を抜けると、今出川通にぶつかる。これを西に向かって歩くと、烏丸通に、さらに西に進むと室町通を横切ることになる。この今出川通と室町通の交差する角には、足利幕府の「花の御所」があったことを示す石碑が建っているが、ほとんどの人は気に止めず、通り過ぎていく。
この石碑を脇目に、さらに西へ進むと、堀川通のすぐ手前に、目的地の白峯神宮がある。
白峯神宮の祭神は、崇徳上皇であるが、既に述べたように保元の乱で敗北し、その結果、讃岐へ流罪となり、その地で崩御された。
当社坂出工場に、昔、五色台荘という保養所があったが、工場と保養所の途中の山道に、崇徳上皇を祀る白峯宮があり、約半世紀ほど前に訪れたことがあるが、何とも寂しい場所であった記憶だけが残っている。
崇徳上皇が、怨霊になった所以は、讃岐への流罪そのものではない。
崇徳は、配流先で一心に写経に努め、3年かけて書き上げた写経を、京都に近い八幡山か高野山、できれば鳥羽法皇の御陵に納めたいと京都へに送った。しかし、後白河(または信西)は、「罪人の行った写経には、呪詛がある」と決めつけ、送り返してしまう。
崇徳は、悲しむと共に、怒り、食事も摂らず、爪は伸ばし放題、髪も解かず天狗の形相になり、舌を噛み切り、写本に「日本国の大魔縁となり、皇をとって民となし、民を皇となさん」と書き込んだ。
その後、平治の乱が起こり平家の天下に、さらには鎌倉幕府へと繋がり、まさに、「民が皇」になってしまった。この幕府(民)へ権力が移ったことは、崇徳上皇の怨霊によるものと、天皇家では長く信じることに繋がったのである。
江戸末期、大政奉還が行われ「民から皇へと」まさに奉還されることになったことを受け、明治天皇は即位にあたり、崇徳上皇の霊を京都にお戻り願うこととし、神宮を建立、祀ることになった。それが白峯神宮である。
700年、天皇家を苦しめた、そもそもの原因はなんであったのか?
崇徳の怒りは讃岐へ流されたことではなく、「写本が突き返された」ことであり、後白河が「写本には、呪詛がある、崇徳には未だ天皇復帰の野心がある」と「決めつけた」ことにある。
後白河の判断と一般的には言われているが、この時代、内覧(天皇への奏上は、事前に腹心が閲覧する)の制度があり、信西が目を通していたはずである。
信西は、その妻が後白河の乳母ということで身分は低いものの出世をし、後白河の懐刀として暗躍していたが、後白河上皇と同じ価値観(年齢的に、また後白河即位の経緯から、信西の考えを後白河に植えつけていた?)で階段を駆け上がった男である。
そんな懐刀の信西は、後白河を次のように評価している。
「和漢の間、比類少なき暗主」、その暗君のわずかな徳として「もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ」
端的に言えば、能力がないにも関わらず、一旦やろうと決めたことは人が制止するのも聞かず、必ずやり遂げる、それだけが取り柄と。
この人物評価、加えて法住寺で院政を敷いた経緯、親、兄弟の首を刎ねさせる保元の乱後の処置、これらから見えてくるのは、後白河は「自らの判断においては、間違いを犯すことはない」、行動経済学が指摘する、「人は限定合理性の存在である」ことを意識しない、そういった性格の人間と推測される。
「限定合理性」
本来、人は、判断において、時として間違いも犯す「限定合理性」の存在である。
自らの判断には間違いがない、その道のプロだと自負する・・こういった人は、判断の際、自らの直感を重視、誰もが有している「偏見(バイアス)」の存在を意識せず、他人に意見を求めるなどの客観視もしない傾向にある。
そのような判断は、時として重大な問題を引き起こす。強いリーダーシップを持つ経営者が、誤った判断をすることがあるが、その理由として、「行動意思決定論(バイアスの罠)」*1は、「人間の意思決定は気づかないうちにさまざまなバイアスを帯びているため」と、指摘している。
後白河も年少の近衛に天皇を先に越されていたが、近衛が早くして亡くなったため、偶然にも天皇の地位に巡りあった。信西も、後白河の即位に伴い、乳母の夫という立場でプロモートされた。
それにも関わらず、自らは仏に選ばれ、天皇という形で、現世の君主として現れた(神仏習合)と、考えていたのではないか。加えて、屈折した過去が、「自らは偉大である、あるべきだ、そのように振るまわれねば」との意識を助長させていたのではと想像するからである。
「崇徳は犯罪人、犯罪人は呪詛するはず」という先入観、偏見・・自らは間違いを犯すはずがない、偉大であるという意識の人間には、自らの判断に偏見が存在するかも知れないと、立ち止まる術がない。このことが、崇徳の怨霊、その結果700年に渡る、天皇家の重荷につながったと言える。
企業活動でも、バイアスに基づく判断で、経営を苦しくした事例は多くある。
北海道拓殖銀行;バブル崩壊後、貸出先も減少する中、リゾート開発に手を染める。
上手くいかず、撤退をするべき時期が来ていたにもかかわらず、「今、撤退すれば、それまでの投
資が損失として顕在化してしまう。もう少し投資すれば、回収の可能性がわずかながらでもある」
と判断。その結果、追加投資をして、傷口を広げ、倒産に至ってしまった。
前掲書においては「コミットメントのエスカレーション(前の意思決定は正しいとバイアスが働く)」に相当すると言えよう。
タカタ(エアバック);エアバッグをコンパクトにするため、他社が製造過程の難しさから採用を避
けてきた硝酸アンモニュウム(コンパクトにはなるが、吸湿しやすく安定性に欠ける)を使用して
いた。日本では、製造工程において徹底した湿度管理をしていたが、北米のエアバッグはメキシ
コで製造しており、工程管理は日本の工場に比べ不十分であった。アメリカで死亡事故が起きた
にもかかわらず、「品質には自信がある」として、製造現場の現実を日本の経営トップは見ようと
しなかった。「こうあって欲しいという願望が、出来るはずだ」とのバイアスとして働き、現場を
直視した判断を怠り、被害を拡大させ、倒産に至った。
こちらは、「確証バイアス」の事例と言えよう。
バイアスには、過去の経験、成功体験に引きずられていることも多く、「現状維持が是」というバイアスも強いとされる。この点については、後述したい。
製造現場におけるヒューマンエラーの多くは、「作業基準書を確認しなくても、この作業は慣れているから・・」と慢心に起因しているがことが多い、そのことを口すっぱく指導する経営者自身が、自らの判断には、慢心からくるバイアスに侵されていないだろうか。
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川のわれても末に 逢はむとぞ思ふ」
白峯神宮には、崇徳上皇が詠み、百人一首に撰ばれた有名な歌の碑がある。

多くの人は、「今は離れ離れ(滝川のわれて)になっているが、いずれは一緒になりたい」と男女の恋の歌と解説しているが、この「離れ離れ」は
皇統を指しているという人も、少くない。
私もその立場であるが、後白河がそのように解釈しようと心を開いていたならば、700年に渡り天皇家が重荷を背負うこともなかったのではないかと、歌碑の前で佇んでしまう。
怨霊鎮魂の神社を巡ったが、「怨霊は、良心の呵責に苛まれたの人が作り上げた」と考えると、一片の救いもある。
京都の夏といえば、祇園祭であるが、このルーツは、貞観年代に神泉苑で行われた「御霊会」である。
天皇家のみならず、町衆も怨霊を意識して今日に至っている、それが京都なのであろう。
*1;「行動意思決定論(バイアスの罠)」 M.H.ベイザーマン D.H.ムーア 著 長瀬勝彦訳
白桃書房
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