top of page
検索

8 詩仙堂から修学院離宮を歩く

  • 執筆者の写真: Hase Mac
    Hase Mac
  • 2023年6月3日
  • 読了時間: 10分

更新日:2023年6月25日

詩仙堂へ向かう

叡山電鉄一乗寺駅で下車、駅のすぐ南を、東西に走る道が曼殊院道である。

この道を、東に少し上がっていくと、宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場で知られる、一乗寺下り松がある。曼殊院道はここで北に折れるが、そのまま、ほぼ真っ直ぐ歩くと200mほどで詩仙堂に着く。


詩仙堂は、江戸時代初期の文人、石川丈山が59才の時(1641年)隠居所として自ら手掛けた山荘である。丈山は、漢詩、書、作庭に励んだといい、狩野探幽が描いた中国の詩人、三十六人の肖像画を掲げた「詩仙の間」から、詩仙堂と呼ばれている。

紅葉の季節も良いが、書院前の唐様庭園のサツキも見事である。庭を歩くと、丈山が考案したと伝えられる鹿おどしの音が聞こえてくる。


丈山の手による庭は、東本願寺の飛び地境内にある渉成園が知られている。渉成園は、徳川家光からの寄進によるもので、徳川家との強い繋がりがうかがえる。


一介の文人が、なぜ、幕府の御用絵師であった探幽に肖像画を依頼できたのか、なぜ徳川家所縁の東本願寺の庭園の作庭を手がけることになったのか・・その理由は、丈山の前半生にあると言える。


丈山は、1583年徳川家に仕える譜代武士の家に生まれた。

武芸を学び、家康の近侍となり、18歳の時に関ヶ原の戦いに赴くなど、忠誠心を持って勤めていたが、1615年丈山33歳の時、大坂夏の陣を最後に武士を隠退する。

この夏の陣で功績を挙げたものの、家康が発した先陣争いを禁じる軍令に反しての抜け駆けによる功であったため、家康から賞されなかったことが理由であると言われている。


家康のブレーンの一人であった林羅山は、家康の処置に非があるとし、申開きをしなかった丈山と交友を深めていった。羅山は、後の家光の時代に、幕府政治に深く関わっていくが、丈山との交流は続き、三十六詩仙の選定に当たって誰を選ぶかでも意見を交わしている。また、丈山は一時、安芸浅野家に出仕しているが、その時仲介したのが京都所司代板倉重宗の弟重政である。このような丈山と幕府の強い繋がりが、「京都における朝廷の監視役を果たしていたのではないか」と語られることになる。

家康との繋がりは、次の圓光寺でも感じられる。


圓光寺(家康の墓)

詩仙堂から一乗寺下り松の方角へ少し戻り、右に曲がると圓光寺である。

圓光寺は家康が教学の発展のために伏見城下に設立した学校がその前身で、相国寺山内を経て、1667年に現在の地に移っている。

詩仙堂と圓光寺の間は、直線距離で200m弱、今でこそ、民家が立ち並んでいるが、鹿が出没したとされる当時では、隣接していたものと容易に想像できる。

ここに、家康の歯を埋めた京都では唯一と言われる墓と東照宮がある。丈山は1672年に亡くなっているので、圓光寺の移設に、何らかの影響を及ぼしているのではないか、少なくとも墓参は欠かさなかったのではないかと思いを巡らす。


曼殊院へ

曼殊院道は、一乗寺下り松から北上するが、山裾を時計回りに東に方向を変えるので、圓光寺を出て、民家の細い路地を北に向かって歩けば、曼殊院道に突き当たることができる。その後、道なりに15分ほどで到着する。

曼殊院は、皇族所縁の門跡寺院で後水尾天皇の猶子(実際は従兄弟)良尚法親王が、1646年に天台座主に任じられた後、1656年に現在の地に移転させ、今日に至っている。

良尚法親王の実の父親は、桂離宮を造営した八条宮智仁親王であり、猶父である後水尾天皇は修学院離宮を造営している。その影響もあり、曼殊院も枯山水の庭園、茶室などの趣向が凝らされ、「小さな桂離宮」とも称されている。

注目したいのは、良尚法親王が、絵画を狩野探幽に学ぶなど、仏教者であると共に茶道、華道、香道、和歌、書道、造園などに通じた人物しても知られていることである。

石川丈山ー狩野探幽ー良尚法親王と、狩野探幽を媒介に、幕府側と朝廷側が知己であったことがうかがえる。


修学院離宮を目指す

曼殊院の前の道を北に歩くと音羽川にぶつかる。

これを上流側へ曲がると、比叡山に至る雲母坂となるが、下流方向へ曲がり、しばらく川沿いに下っていくと修学院離宮の案内板が出てくる。そこで、音羽川を渡ると、程なくして目的地の修学院離宮に到着する。


苑内からは京都市内や西山が望める。その西の山並みに陽が落ちる時間帯がなんとも美しく、京都市内であることを忘れてしまう。最近は、予約制なので希望する日も、まして時間帯を選ぶのもかなりの苦労である。    (この写真は、10年以上前に撮影)


この修学院離宮、造営したのは前述の後水尾天皇(造営時は、上皇)である。


後水尾は、徳川家康が皇位継承に介入し、その意向で1611年に即位した天皇である。その2年後の1613年、当時17歳の後水尾に対し、6歳だった徳川和子(秀忠の娘)の嫁入りが決められる。(実現は1620年)この婚姻は将軍家が天皇の外戚となるための政略結婚であるとともに、朝廷を監視下に置くことを狙ったものであったとされる。

1627年、有名な「紫衣事件」が勃発する。後水尾が「大徳寺」「妙心寺」の僧侶に与えた紫衣が、幕府により無効とされたのである。端的に言えば、「勅許」より「幕府の法度」が優先することを示すものであった。

朝廷と高僧達は納得できず、幕府に対して抗議したが、幕府は朝廷のこういった行動を頑なに禁じ、抗議した高僧(沢庵ほか)を流罪に処することにした。

こうした幕府の対応に後水尾は激怒し、幕府に無断で譲位を決意。同年中に興子内親王(和子との間の子で、数えで7才)を立て、事前通告を行わないまま、翌1630年に明正天皇として即位を実行、朝廷と幕府が築いてきた関係は一気に瓦解することとなる。秀忠は、後水尾をも流罪にすべきと考えていた節がある。


1639年、後水尾は、深泥池の北に幡枝離宮を造営した。現在の圓通寺である。

比叡山が最も美しく見える場所を12年間探し続けて、この地に辿り着いたといわれている。比叡山を借景とした庭園の設計、さらに石の配置までも、後水尾自らが行ったと言われている。12年間探していた、ということは1627年からであり、丁度、紫衣事件が勃発した頃となる。

朝廷との軋轢の中、仏の力を借りようとでも思っていたのであろうか。


ところが、1656年頃から、修学院離宮の造営に力を注ぎ、幡枝離宮は近衛家に下賜することになる。


ここで疑問となるのが、何故、朝廷監視役ではないかと疑念を持たれていた石川丈山の棲む、詩仙堂近くにその地を選んだのかである。幡枝離宮と詩仙堂は、直線距離で4km弱あった(時代的にも幡枝離宮の後に詩仙堂が建設)が、修学院離宮は、詩仙堂から1kmほどのところにあり、上皇の方から近づいて行ったように、私の目には見える。何故だろうか?10数年前からの疑問であった。


鍵は前田利常か?

前田利常は、加賀藩第2代藩主である。大坂冬の陣では徳川方として参戦、真田軍と対峙した。家康からの攻撃命令も無い中、功を焦り、軍令に反して独断で真田丸に攻撃をかけ、多数の死傷者を出して敗北した。石川丈山が、大坂夏の陣で戦功を焦ったのと同じことを行なっていたのである。

この時、利常は20才になるかならないかで、補佐していたのが本多政重である。

本多政重とは、本田正信の次男で、石川丈山の母が本多正信の姪であることから、政重は丈山にとって「従兄弟叔父」の関係であった。


前田利家(利常の父)は、秀吉体制における五大老の一人として、徳川家康と拮抗する立場であった。利家が1599年に亡くなると、その後を継いだ利長は、徳川家康との緊張関係も継ぐことになる。家康は、加賀征伐を画策、これに対し、時の当主であった前田利長は、実母の芳春院を、自らの懇願もあり人質として江戸に差し出し、さらに養嗣子・利常と珠姫(徳川秀忠娘・当時3才)の結婚を約束することで交戦を回避することとした。

利長の後を継いだ、利常が、一抹の不安のある徳川家との状況下、大坂の陣で功を挙げようと意気込んでいたことは容易に想像ができる。


一方、石川丈山も功を挙げようと、大坂夏の陣では、岡山口に陣取る従兄弟叔父の本多政重の元へ走り、家康から禁じられていた先駆けをおこなったのであろうと記録に残されている。*1

これが、冒頭に記した丈山隠退のきっかけとなった所以である。


丈山は、酬恩庵一休寺の方丈の庭を手がけているが、この酬恩庵は前田利常との関係も深く、大阪夏の陣で、利常は本寺を参拝し、一休和尚の教えに尊敬の念を抱き、後日、方丈を寄贈している。

このような一連の事柄から、丈山と利常の繋がりはかなり強かったと見て取れる。


後水尾上皇と利常

すでに述べたように、上皇の中宮(東福門院・徳川和子)と前田利常の正室(珠姫)は、秀忠と豊臣達子(浅井長政の娘・お江)と同じ両親からの実の姉妹である。

さらに、利常の子である富子は、八条宮智忠親王に嫁いでいる。智忠親王は、曼殊院の門跡であった良尚法親王の兄で、父が手がけた桂離宮を完成に導いた人物である。


前田利常は、この他、茶人であり造園家の小堀遠州と、総合芸術家ともいえる本阿弥光悦、刀装具の後藤覚乗、茶人・千宗旦、金森宗和、蒔絵の五十嵐道甫など、町衆とも交流をしている。


寛永文化

江戸幕府による朝廷統制の秩序のなか、文化で対抗しようとする意識が、後水尾を中心に朝廷で芽生え、さらに都の伝統を重視したいとする町衆の想いにより、興隆した文化であったと言われている。この文化は、公家、武家、町衆、文人といった身分を超えた交流(サロン)の形で発展している。

茶の湯では、千宗旦・金森宗和・小堀遠州、儒学では石川丈山・林羅山、絵画では俵屋宗達、狩野探幽・狩野山雪、その他陶芸、生花・・などの集まりがあったが、複数のサロンに参加する人々によって、人の輪が広がっていたようである。

前述した曼殊院の良尚法親王も、こういったサロンの一員であったのであろう。


後水尾は、和歌、漢詩集、書道に、さらに華道では、池坊専好を召し、立花を愛でていたとされる。こうした中で行われたのが、幡枝離宮を捨てての修学院離宮の造営であった。


争う相手は「昨日までの自分」

文化面でも武道でもそうだが、道を極めようとすれば、自分との戦いであるといえる。

昨日までの自分より、今日は一歩前進することを目指す。


功を争う、先陣を争う・・相手は他人である。

朝廷と幕府、将軍と大名の権力争い・・争う相手は他人である。


それらに対する興味を失い、自らを高めたいと思った瞬間、争う相手は「昨日までの自分」となる。


石川丈山は、功を争うことの無意味さを感じ、漢詩、作庭・・といった分野で、極めようと思ったのではないか。

後水尾も、幕府との権力闘争の無意味さを、遅ればせながら感じたのではなかろうか。

その接着剤となったのが、同じく徳川家との争いに無意味さを覚えた前田利常であったのではなかろうか。


後水尾は、丈山が幕府による自らの監視役であるのではないかと認識しつつも、その生き方には共感を

覚えたのではないかと推察している。


後水尾から丈山にお召しがあった時、丈山は次の歌を送って、これを断っている。

「渡らじな 瀬見の小川の浅くとも 老の波たつ影は恥かし」

お召しは嬉しいのですが、もう老人なので、恥ずかしくてお会いできません、といった意味であろう。


これに対して、後水尾上皇は次のように手直しして送り返した、と言われている。

「渡らじな 瀬見の小川の浅くとも 老の波そふ影は恥かし」

老人(徳川幕府)に寄り添っているので、会うことはできないのでは。


お召しがあったことは事実のようで、丈山の人となりを利常から聞き及び、興味を持っていたのではないかと想像する。


後水尾にしてみれば、争うのが「昨日までの自分」であるばならば、それに打ち勝つためのスポンサーである幕府は味方ともいえる、その結果が、敢えて、丈山が棲む詩仙堂に近い場所を選ぶことにつながったのではないか・・そんなことを考えてしまう。


それとも単に、「比叡山への登り道である雲母坂に近づきたい」との思いであったのか?


後水尾上皇は、満84才で崩御する。丈山は89才で死去する。徳川家康こそ75才であったが、秀忠 52才、家光 46才 の死去に比べ、はるかに長寿であったと言える。何か因果でもあるのであろうか。   


「争う相手は、昨日まで自分」という生き方は、前話における「認知を広げる」ことでもある。

「自らの判断に誤りはない、学ぶものはない、他人の意見に耳を傾ける必要もない」と自負する人とは真逆な生き方であろう。


塩野七生は「ローマから日本が見える」(発行所 (株)集英社)を著わしたが、その本意は「歴史から学ぶ」ことの重要性である。

「京都を歩くことで、何が観えるか、学べるか」そんな気持ちで、歩いている。


引用; *1 「石川丈山年譜稿」 小川武彦著 跡見学園女子大学紀要 第14号



 
 
 

コメント


京都散策

©2023 京都散策。Wix.com で作成されました。

bottom of page