「名こそ惜しけれ」、一の谷の合戦と川崎造船所
- Hase Mac
- 2024年9月13日
- 読了時間: 12分
更新日:2024年11月23日
神戸の街を歩くと、平家物語を想起させてくれる遺跡に出会うことが度々ある。
独身寮を出て最初に住んだのが、須磨区一ノ谷町であった。裏山への登り口に「安徳帝内裏跡伝説地」と称される祠がある。海岸沿いを西へ歩いて数分の須磨浦公園には、東端に「戦の濱」碑が、西端には能・敦盛の非話で知られる「敦盛塚」がある。東に20分ほどの須磨寺には敦盛の首塚や愛用の「青葉の笛」が展示されている。


安徳内裏跡伝説地 敦盛塚
後に、垂水区に移ったが、義経が戦勝祈願したとされる多井畑厄除八幡宮は30分の徒歩圏内にある。このような場所を巡る限りでは、「一の谷の合戦」とは、名前の通り、須磨の西周辺における局地的な戦いかと誤解してしまう。
平家物語を読めばわかるが、戦域は、現在の神戸全体に及んでいる。(前哨戦も含めると加東市付近にも拡がっている)
この合戦で平家は、宗盛を総大将とし、東の生田川には知盛が、西は境川(現在の須磨区と垂水区の境)に忠度、北は山田に資盛、有盛等が陣を敷いていた。また、洋上(主に駒ヶ林、須磨沖)に船を配し、屋島への退却にも備えていた。合戦当日、宗盛は、戦には足手まといになる安徳帝、建礼門院とともに須磨沖で戦況を見極めていた。
何故「一の谷の合戦」なのか
倶利伽羅峠で源義仲に敗れた平家は、安徳天皇と三種の神器を奉じて、九州まで逃れた。しかし、京を制圧した義仲は、統治能力に欠け、後白河法皇とも対立、さらに平家追討のために出兵するが備中国で大敗を喫してしまう。義仲軍は兵力も激減、屋島にまで戻っていた平家に和平を申し出るが拒絶され、頼朝が派遣した範頼、義経率いる鎌倉軍に攻められ滅ぶ。
この源氏同士の抗争間に勢力を立て直した平家は、大輪田泊に上陸、福原まで進出したが、この時、一の谷に行宮を建て、安徳天皇を迎えたとされる。これが冒頭の安徳帝内裏跡で、一帯は一の谷城跡ともいわれている。
この時、平家は、瀬戸内海を制圧、中国、四国、九州を支配、数万の兵力を擁するまでに回復、都奪回を目指していた。
安徳帝が九州に逃れた後、後白河法王は安徳帝の異母弟を、三種の神器を伴わなずして後鳥羽天皇として擁立、結果、神器を有する安徳帝と並立する事態となった。このため、後白河は、範頼、義経に神器奪還を目的とした平氏追討の院宣を与えることになる。
三種の神器と共にある安徳帝の行宮である一ノ谷を攻める戦いという意味で、「一の谷の合戦」と称するのであろう。
平家の敗走
範頼、義経は二手に分かれ、搦め手を担った義経は、京都から、亀岡を通り、丹波路(国道372号線沿いの古道)を南下、これを迎え討つため、資盛が駒を進め、三草山(加東市)で対峙する。
義経は、寿永3年2月4日に三草山に到着、休む間もなく夜襲を仕掛ける。一方、平家はこの日は清盛の命日で、戦いは明日と油断していた節もある。ふいを突かれ、平家は混乱状態となり敗走、資盛等は高砂から船で屋島に逃れた。
三草山で勝利した義経軍は、南下、藍那を経て、鵯越に向かった。鵯越を過ぎたところで、二手に分かれ、義経は七十騎で多井畑を経て、一の谷に向かう。これが有名な「一の谷の逆落とし」となる。(逆落としの場所は諸説ある)
平家は、義経が鵯越から夢野へ来るであろうと、教経等が迎え討つ体制を敷いていたが、現れなかった。一の谷で火の手が上がり、生田口も破れ、北口を守っていた兵士は士気を喪失、浜に出た。教経は東尻池付近で討たれたとされる。
東門の大将、知盛も背後に火が上がり、破れたことを悟り、東門を死守するより、幼帝を護ることが大事と駒ヶ林へ向かう。
一の谷、生田、鵯越の三方から攻められ、平家の将の多くが、長田周辺で討たれることとなった。
監物太郎頼賢の碑
知盛と子知章およびその臣下の監物太郎は、生田の森から夢野を経て、明泉寺付近から南下、海へ向かおうとしたところで敵に囲まれる。
監物太郎は弓の名人、しかし多勢に無勢、矢もなくなる。知盛に迫った敵の一将に斬りかかった知章に、監物太郎は助勢しようと奮戦したが、共に討たれる。この間に、知盛は駒ヶ林でかろうじて船に逃れることができた。
市内には平家方の遺跡が沢山あるが、多くは敦盛、知章といった将を祀ったものである。家臣に相当する遺跡は、この監物太郎の碑だけである。
地下鉄長田駅に程近い彩星工科高等学校正門の道を挟んだ反対側に、その碑はある。
幅約1mの参道を10m弱進むと、左手に高さ70cm、幅130cmの台の上に、碑を納める高さ1m余の祠がある。
この碑の存在は、文献に記されているが、現地に足を運ばなければ分からないことがある。
参道入口に碑の存在を示す石があるが、そのすぐ後ろに、参道を挟み二本の石柱が立っている。
右側石柱表面には、「奉 川崎造船所機械部」、裏に「戈田組中」、左側石柱表面には「納 川崎造船所旋盤」の文字が読み取れる。参道を挟んだ一対の「奉納」の石柱が、参拝者を迎えている。
参道を進むと左側に祠があるが、その前にある線香立ての台座には「川崎造船所 機械部 灰藤組中」、また祠の台座前面には「川崎造船所 機械部 富田組中」と刻まれている。
歴史的には、明泉寺にあった碑が、明治36年にこの地に移され祠が建てられたが、その際、川崎造船所で働く人達が大きく関わっていたのであろう。
川崎造船所の歴史を重ねると、明治35年に第一乾ドックが竣工し、意気高揚していた時代であった。
監物太郎 祠入口 線香立てと祠の台座
名こそ惜しけれ
祠の創建に込めた、川崎造船所の人たちの想いはなんであったのであろうか。
監物太郎は、いわゆる忠義の人であったことに間違いはない。しかし、従業員の人たちが「忠義」に畏敬の念を抱き、祠の創建に携わるであろうか?
家臣である監物太郎という人物が、碑という形で「名が残されている」ことに意味がありそうだ。
「名を残す」とは、後世の人、社会の評価に依存している。そういった評価に耐えられるよう「恥ずかしいことはしない」と自らを律する精神、それが「名こそ惜しけれ」である。
司馬遼太郎は、「私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神は坂東武者からおこり、その後全国に浸透、江戸時代のモラルとして定着した」と記した。
平知盛は、壇ノ浦の決戦にあたって、「今日が最後の戦さだ。少しも退くな。いかに名将勇士でも、運が尽きれば滅びる。しかし名こそ惜しけれ。東国の者どもに弱気を見せるな。・・・」と全軍を鼓舞している。
「名こそ惜しけれ」は「卑怯な真似をするな」でもある。
敦盛は敗走し船に向かう途中、源氏の熊谷直実に「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止められ、引き返し、討たれることになる。
「名こそ惜しけれ」の言葉を遡ると、「一の谷の合戦」の100年ほど前、歌に詠まれている。
小倉百人一首に「春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ」(周防内侍)が選ばれているが、「恥と疑われるような行いは慎みたい」との意味で、この時代、彼女たちはこの言葉をしきりに使っていたとある。
男女に関わらず、武士階級であろうとなかろうと、多くの人の心に沁み込んでいた価値観であったと言える。
祠建設の時代背景
明治27年日清戦争に勝利した我が国に対し、露、独、仏 は、遼東半島返還を勧告、とくに露は、日本の遼東半島領有が自国の南下政策を阻害するとし、干渉を強めた。日本はこれを受け入れざるを得なかったが、国民は「臥薪嘗胆」を合言葉に、露への対抗心を高めていった。そのような国民の声が、軍備拡張、工業化への推進政策を後押しすることとなる。
この時代、川崎造船所で働く人たちに影響を与えたのが、福澤諭吉と新渡戸稲造だったと推察している。
福澤諭吉は、西洋列強による東洋への進出を防ぐには、従来の「四書五経」を学ぶだけでは不可能である。「立国は私なり。公にあらざるなり」「よき政府は、人民の品性によって決まる」、すなわち国の発展は、国民一人一人が自らの肩に掛かっていると認識し、志を持って新たな智を学び、これを活用せねばならないと、「学問のすすめ」をはじめとする多くの書物で啓蒙していた。現在の言葉で言えば、「自律、モティベーション、研鑽、エンゲージメント」であろう。
当時、日本の人口は3000万人であったが、「学問のすすめ」は300万部以上売れたという。
一方、新渡戸稲造は日本人の道徳感は武士道に立脚していると、明治29年「武士道」をアメリカで発表した。33年には我が国でも発刊され、15000部が売れたとされている。翻訳されたのは41年であったから、祠が建てられた明治36年には英文の「武士道」しか存在していなかったが、武士道において何が一番大事なのかは理解されていたと思う。
武士道に影響を与えた孟子は「義は人の路」とした。新渡戸は、「義」を、武士道の最も厳しい教えとして、“rectitude”と紹介した。「忠義(loyalty)」は7番目である。
この“rectitude”、英英辞典では、 “The quality of thinking or behaving in a correct and honest way”「正しく誠実に考えたり行動したりする性質」となる。
これらから、「主君より、人の路、社会の評価」「自ら何が正しいか考え、行動する」ことの大事さを説いている。現在の言葉で言えば、「モラル、コンプライアンス、自律」に当たると言えよう。
乾ドックを完成させ、海軍力増強の一翼を担うべきとされていた川崎造船所の人たちも、これ等の書物に感化されたであろう。日露戦争に備え、列強に比肩する海軍力を保有することが義であると信じ、その達成に貢献することで、後世に恥じぬ生き方を願っていたのではないかと思う。
監物太郎は家臣の身である。従業員たちは、自らと同じ身分とも言える監物太郎の碑が存在していること自体に感動し、その発露が、祠の創建へつながったのではないかと推察する。
ずる、卑怯
「名こそ惜しけれ」の第一義は「恥ずかしい真似をするな」であるから、反対語は「ずる」「卑怯」な行いとなる。
ずるい人はどのような行動をするのか、「ずる 嘘とごまかしの行動経済学」は次のように記している。
『自分を正直で立派な人物と思いたい。鏡に映った自分の姿を見て、自分に満足したい。その一方では、ごまかしから利益を得て、できるだけ得をしたい。
ごまかしから利益を確実に得ながら、自分を正直ですばらしい人物だと思い続ける、この両者のバランスを取ろうとする行為こそが自分を正当化する・・それがずるである』
昨年の「相信」に、明智光秀の裏切りに関し、「信頼を裏切った人間は、自らの罪を軽減するため、相手に(にも)非が有るように取り繕う。『気持ちを理解してくれない』『意向に反して』・・心に秘めたことを理解して接してくれていたら、こんなことにはならなかったのに・・」と相手に責任を転嫁することで、自らを正当化しようとすると記した。これがまさにその一例である。
さらには相手が「人の路」から外れていた証拠を探そうとする。それでも出てこないと最後は断片的な情報を組み合わせ都合の良いように捏造する・・こういった一連の行為をすることで、バランスを保とうとする、そういう思いに至るのが「ずるい人の心理」との指摘である。
他人から見た、「ずる」の判断基準はなんであろうか?
ある人は「法を守らないのは悪だが、ずるは法の抜け道を探す」と述べている。
法をすり抜けることで、自らの行為を正当化しようとする。本人にとっては心理的に和らぐであろうが、他人の目は厳しい。他人にとって「ずる(卑怯)」の基準は「義、人の路」であり、法を犯したかどうかではない。
この4月に行われた衆院補欠選挙、不戦敗も含め、自民党は3戦全敗であった。産経新聞ですら「政治資金パーティー収入不記載事件が直撃」と指摘しているように、政治資金規正法が、一般庶民の感覚からかけ離れていることに対する審判であったと言える。
この法律は、過去、大きな改正だけでも12回行われていることからしても、「ざる法」と指摘されても致し方ない。
例えば、何故2世議員が多いのか、政治団体間で資金を移しても、相続税、贈与税がかからないため、親の資産を子は非課税で相続できる。また支出も規制が存在しないため、私的流用、マネーロンダリングも可能である。
仮に、指摘されても「法律に則った処理をしています」との回答になる。
先の補選結果は、法を作る議員自身が「人の路」から乖離していることへの、庶民の憤りであろう。(現在、改正法が審議されているので、どう変わるか注視したい)
川崎造船所の人達の心、川崎芳太郎翁の京都宝鏡院再興への想い、そこには「義(人の路)、正々堂々」の精神が企業風土として深く根づいていたと想像する。その精神は、ミッションステートメントで「・・社会への貢献」を第一に掲げることで引き継がれている。川崎重工は「法律さえ守っていれば、人の路から外れてもよい会社とは相容れない」との精神を貫いて欲しいと願う。
一万円札が福澤諭吉から渋沢栄一に
渋沢栄一は「論語と算盤」で、経営者には「モラル、イノベーション精神」が、一方、福澤諭吉は、一人一人の志に基づく社会への「エンゲージメント意識」が重要としていた。
モラルを「社会が自分に何を求めているか」、エンゲージメントを「自分は社会のために何が貢献できるか」と考えると、社会の一員として、自らの考えに基づき行動するという点では同じである。
トヨタの系列会社で不祥事が多発した折、豊田章男会長はダイハツの工場を訪れ、従業員の前で「この中に告発者がいらっしゃると思います。本当に言ってくれてありがとう」と発言している。
トヨタの成長は、改善活動に見られるように、従業員一人一人が考え、新たな目標へ向かって変革していくという自律的な活動、自発的に貢献しようというエンゲージメントに支えられている。
不正があっても、見て見ぬ振りをする、大勢に任せ自ら何が正しいか考えようとしない、自律心を欠き、会社へ阿る風土では、会社成長への貢献も期待できない、そのような危機感からの発言であったと想像する。(その後、トヨタ本体でも不祥事が発覚し、危機感はさらに深まってきている)
「名こそ惜しけれ」の精神は、狭い意味としては「恥ずかしい振る舞いをするな」であるが、広く捉えれば「社会への貢献」も含まれよう。
一万円札の顔は福澤諭吉から渋沢栄一へバトンタッチしたが、いずれにしても「名こそ惜しけれ」の精神がどの時代にも求められていると言うことである。
引用・参考文献
1 源平と神戸 神戸史談会編集
2 国際港都の生いたち その8 源平と神戸の古跡 奥中喜代一著 建設工学研究所
3 現代語訳 武士道 山本博文訳 ちくま新書
4 この国のかたち 司馬遼太郎 文春文庫
5 ずる 嘘とごまかしの行動経済学 ダン・アリエリー 早川書房
6 京都を歩き、観て、考え、学んだこと 相信第46号
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