5 岡崎から院政の地を歩く
- Hase Mac
- 2023年6月3日
- 読了時間: 9分
更新日:2023年6月24日
平安神宮の南、動物園との間を二条通が走っているが、動物園の東端、道を挟んだ北側に「白河院」という和風旅館がある。琵琶湖疏水から水を引き入れ、平安神宮の神苑などを作庭した小川治兵衛の手による池泉回遊式の庭を有し、ランチだけでも楽しむことができる。
この場所、歴史を遡ると、人臣最初の摂政になった藤原良房の別荘であり、師実の時代に、白河天皇に献上され、法勝寺が建立された地でもある。
法勝寺の存在は、駒札だけに残されているが、かつては高さ約81mの八角九重の塔があり、東寺の塔が約56mであることからも、当時、威容を誇っていたと想像できる。
白河は、上皇になった後、この地で国政を統べるようになった、いわゆる院政開始の場所でもある。
二条通りを西に歩くと、白河の子(堀河)、孫(鳥羽、その中宮、待賢門院)、ひ孫(崇徳、近衛)の御願寺、合わせて六つの寺が過去にはあった。すべてに「勝」が付くので、合わせ六勝寺と呼ばれ、現在の平安神宮から動物園、京セラ美術館といった岡崎一帯を占めていたと言われている。
不思議なことに、白河のひ孫の一人、源頼朝にして「大天狗」と称された後白河天皇だけは、この岡崎の地ではなく、4km弱南の法住寺で、院政を敷いている。
法住寺は余り聞きなれない名前ではなかろうか。有名な三十三間堂は、この法住寺内に、平清盛により創建された仏堂で、法住寺の一部であった。
岡崎の六勝寺は、度重なる戦火によって焼失、石碑だけが歴史を伝えているので、それを確認し、三十三間堂を目指して歩くことににする。
岡崎から南に下り、青蓮院、八坂神社の脇を抜け、建仁寺を過ぎた岡崎から2kmほどのところに、六波羅蜜寺がある。この宝物館には、開祖の空也上人像、六波羅周辺に居を構えた清盛像とともに、仏師運慶、湛慶の像がある。六波羅蜜寺の塔頭の一つ十輪院は、運慶一族の菩提寺であり、清盛が寄進した三十三間堂の鎌倉時代における修復の際、この地で本尊を含め、多くの千手観音像を、一族で彫ったと言われている。

三十三間堂に足を踏み入れると、極楽浄土の主である阿弥陀如来の慈悲の化身とされる千手観音像が黄金色に輝き、人々を救ってくれる、そんな幻想的な空間を醸し出している。
後白河は、熱心な熊野信仰の信者でもあり、幾度となく熊野詣を行っているが、日常でも参拝したいととして建立されたのが新熊野神社で、三十三間堂から更に南へ500mほどのところにある。
入口に、大きな樟(幹周囲7m弱)があり、後白河お手植えの樟と案内板には記されている。
熊野信仰は、神仏習合(仏が、世を救うために神、例えば天皇の姿で現れる)と浄土信仰(仏の作った国に往生することを希求する)が一体化した信仰であり、熊野は末法思想とともに浄土への入り口と考えられるように変化、仏壇と言える三十三間堂に対し、新熊野神社は神棚と言える存在であったようだ。(新熊野神社ホームページより抜粋)
何故、岡崎の地でなく法住寺なのか?
岡崎の地には、白河から歴代法王、天皇の御願寺があるが、後白河は何故その地を選ばなかったのか?その理由を考えるには、院政とは何か、白河と後白河の関係を理解せねば想像できない。
院政を敷く理由として、大きくは三つ挙げられている。
① 皇統を巡る無用な争いを避ける・・壬申の乱のようなことは避けたいとの想い
② 天皇親政・・摂関家の影響を排除したいという、白河の父、後三条天皇の影響
③ 財政的な面 ・・天皇は律令国家の長として荘園を私有することができなかったが、上皇になると荘
園を所有管理することができる
③は大きな成果を挙げたが、別の問題を引き起こした。
形成した資産を、どう相続させるか。この問題は必然的に皇位継承と直結するからで、自分の息子や娘たちにどう資産を相続させるかは、院の考え次第となり、キングメーカーとして朝廷に君臨できる一因となった。すなわち、「①皇統の無用な争いを避ける」ことの妨げになった。
②の「摂関家の排除」にも一定の成果はあったが、逆に、武家の台頭を招くことに繋がった。
これらの点から白河、後白河法皇の歴史を振り返る。
白河の父の後三条天皇は、1069年、後の白河を皇太子にしたが、摂関家の影響を排除したいという思いから、ゆくゆくは藤原家と外戚関係のない実仁親王を次期の皇位後継者として期待、1072年白河に譲位すると同時に、2歳の実仁親王を皇太弟とした。さらに後三条は、重態に陥ると、実仁親王が即位した後には輔仁親王を皇太弟とするよう遺言した。
本来、白河は、実仁親王へのつなぎのはずであったが、後三条は1073年に崩御してしまう。
白河は、後三条の遺言を無視し、自らの子供へ皇統を継がせたいと、1087年、8歳の善仁親王(後の堀河天皇)に譲位するとともに、堀河が幼少であるとの理由で上皇となり、政治を司るようになった。(院政の始まり)
堀河の在位は21年に及んだが、政治の実権を持つことはなかった。
1107年堀河が崩御すると、堀河の第一皇子を即位させ、鳥羽天皇(5歳)とした。
1117年白河は、養女としていた藤原彰子(待賢門院)を鳥羽に入内させ、中宮としたが、この時、すでに白河と待賢門院は男女の関係があったとされ、1119年に生まれた鳥羽の第一皇子、後の崇徳天皇は、白河の子供と噂をされた。鳥羽は、崇徳のことを、自らの子供であるにもかかわらず、「叔父御」と呼んでいたという。
1123年、白河は鳥羽が21歳になった時、崇徳(満年齢で4歳)への譲位を強いた。
本来、天皇の父(鳥羽)が上皇になり、院政も敷くはずのものが、権力は白河が保持したままであった。白河は堀河、鳥羽、崇徳のキングメーカーであり、さらに権力保持を続けたが、その必然性はなく、私心が強く働くようになっていた。
後白河即位へ
1129年白河が崩御し、鳥羽の出番となった。
鳥羽には、待賢門院との間に、崇徳の他、後に後白河となる皇子もいた。
しかし、鳥羽は、その当時、待賢門院ではなく、美福門院を寵愛していた。
1139年、美福門院との間に皇子(後の近衛天皇)が生まれると、鳥羽は、1141年、崇徳に迫り、近衛へ譲位させ、満2歳での即位となった。
崇徳のみならず、1127年生まれの後白河は、ほぞを噛んでいたと思える。鳥羽は、崇徳の存在を無視し、院政を敷く。
ところが、近衛が17歳で急逝する。やむなく誕生したのが後白河天皇である。
後白河の即位時、父の鳥羽が所有していた広大な所領は、既に美福門院との間に出来た八条院(暲子内親王)に、母の待賢門院の所領は崇徳にと、それぞれ受け継がれており、後白河はこれと言った所領を有していなかった。
加えて、鳥羽は、後白河のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と評しており、天皇即位の経緯、これらの状況を見ても、鳥羽と後白河の間に溝があったことは明らかである。
後白河が、白河、鳥羽を敬慕していたならば、岡崎の地で院政を引いていてもおかしくないはずであるが、後白河の足跡が岡崎付近にないのは、このような屈折した過去があったことが理由と推測される。
一説では、法住寺には懐刀の信西(後白河の乳母の夫)がおり、平家一族の居にも近いという点が挙げられている。もしそうであれば、良くいえば「思考の柔軟性」、悪くいえば「手のひら返し」、頼朝が「大天狗」と称した所以が垣間見えてくる。
保元の乱と三十三間堂建立
1155年近衛が崩御し、後白河が天皇に即位したが、近衛亡き後の天皇に自らの子供の即位を期待していた崇徳と、即位した後白河の間で、亀裂が入り、摂関家の対立も交え、「保元の乱」に突入する。その後、平治の乱を経て、武家政権に移行することになる。
端的に言えば、「皇統を巡る無用な争いを避ける」「 天皇親政を目指す」ために、院政を敷いたはずにもかかわらず、皇統を巡る争いは収まる事はなかった。
院政が実質的に機能していたのは、後白河までというのが通説である。
そもそも朝廷の力が失われていったからで、鎌倉時代には、皇位選定に幕府が介入することになり、江戸時代には、「天皇は学問に専心し、政治は幕府に任せ、口を出すな」(禁中並公家諸法度)とまで朝廷の権威は落ちていくが、その理由(武家の台頭)を遡ると、白河から後白河の院政にたどり着く。
保元の乱、崇徳側の源為朝は、夜襲を進言するが、藤原頼長は「上皇と天皇の争いに卑怯な真似はできない」とこれを一蹴した。その夜、後白河側が急襲し、崇徳側は壊滅した。
保元の乱の後、勝ち誇った後白河は、兄である崇徳を讃岐へと流罪にしたが、世界でも類を見ない、過酷な命令を武士にも下した。反逆者の処分は身内でやるようにと。
源義朝には父為義の首を、清盛には叔父忠正の首を自らはねよ、と命じた。
この行為は後に、「上に立つものはモラルを守らなければならず、忠義と並んで最も大切な孝行を義朝に放棄させた」と史上最悪の天皇として批判されることになる。
そんな、後白河も、死後は浄土に救いを求めたいと、「千手観音の像を1000体造れば、救いに来てくれるのではないか」との思いで建立したのが、三十三間堂で、保元の乱後、後白河が清盛に命じて建てた寺、御願寺である。
保元の乱は1156年、平治の乱は1159年、三十三間堂の建立を命じたのは1164年である。その間の1161年に、平滋子との間に、後の高倉天皇が誕生したことも、浄土を希求する思いを強くさせたのかも知れない。
当時は末法思想の時代、自身の臨終に、阿弥陀如来に迎えに来てもらい(来迎)、極楽浄土に連れて行ってもらう(往生)という考えによる建立であったろう。
法住寺は、1183年木曽義仲によって火をかけられる。三十三間堂はその焼失は免れたものの、後白河は、六条殿、長講堂に移り、1192年に、その地で崩御している。
その折、阿弥陀如来は迎えにきてくれたのであろうか?
院政が今に残しているもの
三十三間堂は、後白河の命で建立され、その後、火災にあったものの当時の仏像が100体以上残っており、それらを含め、この空間そのものが今に残る遺産である。
しかし、ここに立って、歴史を振り返ると、この空間は、武力はもとより、財力をも朝廷に比肩する、または上回る武家集団が出現した証と見ることもできる。
後の武家社会の存立を知っている者にとっては、院政が消え去る最後の輝き、残光であったとも感じてしまう。
政治の世界や企業においても「院政」という言葉が残っているが、良いイメージには使われていない。そんなことを考えながら、新熊野神社に移動する。
神社そのものは応仁の乱で焼失、江戸時代の再建である。
院政時代から今に至って、我々が平易に見ることができるのは、後白河お手植えの大樟だけであろう。

結局残ったのは、「院政」という悪いイメージと、この
大樟だけだったのか、そんな思いで仰ぎみた。
時代は下がって、足利義満が世阿弥の能に触れ賞賛した地が、この新熊野神社である。
義満といえば、天皇を目指したとも言われる。少なくとも、天皇を軽視した人物である。
有名な金閣寺は3層からなり、第1層は寝殿造り。第2層は書院造り。そして第3層は禅宗様式。つまり出家した義満は、朝廷と武家の上に位置することを示し、新たな天皇に相応しいのは自分であると誇示していたとされる。さらに第2層、第3層には金箔が貼られているが、第1層には張られていない。そこには天皇の繁栄を望まない、という義満の思いが込められていると言われている。
父、後三条の意志を継ぎ、天皇親政を目指して院政を敷いた白河、そして院政最後の後白河の名残である大樟は、天皇にとって変わろうとしていた義満を、どんなふうに眺めていたのであろうか・・
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