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4 千代の古道を歩く

  • 執筆者の写真: Hase Mac
    Hase Mac
  • 2023年6月3日
  • 読了時間: 6分

更新日:2023年6月24日

京都には歴史を彩り、名付けられた散歩道が少なくない。

哲学の道、ねねの道などがよく知られているが、平安時代、貴族が嵯峨へ遊行する折に通ったとされる「千代の古道」がある。梅宮大社から北上し、車折神社、広沢池、大覚寺に至る道である。


梅宮大社を出発

阪急嵐山線「松尾大社」で下車、桂川を渡り、10分ほどで梅宮大社に到着する。

梅宮大社は、橘氏の氏神であり、嵯峨天皇(桓武天皇の第二皇子)の皇后であった橘嘉智子によって現在の地に遷座されたといわれている。


梅宮大社の名称から想起されるように、そこかしこに梅の木があり、開花期は甘い香りが漂っている。

本殿は、美しい檜皮葺きで、この本殿を取り囲むように、“咲耶池”を中心とした池泉回遊式の東神苑、“勾玉池”を中心とした北神苑は、花菖蒲やアジサイが咲き、西神苑は梅と椿を主体とするなど、梅に加え、桜、霧島つつじ、カキツバタ、花しょうぶ、あじさいなど、季節の花々が次々と咲き誇る庭園が併設されている。


神苑内には、源経信がこの地を詠んだ百人一首の歌、

 「夕されば 門田の稲葉 訪れて 葦のまろやに

    秋風ぞ吹く」  の碑がある。


源経信は、詩歌・管絃に秀で、その多芸多才は藤原公任に並び称される、いわゆる「三船の才」の持ち主であった。


「千代の古道」は、源経信の所縁の地から、三船祭りを神事とする車折神社を通り、藤原公任所縁の名古曽の滝がある大覚寺までを、道程として設定されたのであろうか・・美しい情景を浮かべると、なんとも雅な世界が想像される。

しかし、もう一つ違った観点、視点もあるのではないか・・

梅宮大社は、子授け・安産の神として信仰されている。子供が居なかった、橘嘉智子が、ここに祈願したことで、のちの仁明天皇となる皇子を授かったとの伝承に因んでのことである。


仁明天皇の妹である正子内親王(双子とも言われている)は、嵯峨天皇の弟、淳和天皇(正子からは叔父にあたる)に嫁ぎ、その子恒貞親王は、仁明天皇の皇太子として立てられた。いわゆる両統迭立である。しかし、この後ろ盾であった嵯峨天皇、淳和天皇が亡くなると、嘉智子は両統迭立の考えを捨て、仁明の皇統で継ぐことを藤原良房と画策、いわゆる承和の変である。

正子内親王は、嵯峨天皇の離宮を、出家した恒貞親王の開山により寺として改めた、それが大覚寺である。


千代の古道は、「三船の才」の美しい世界なのか、それとも「承和の変」の醜い世界なのか・・・そんなことを考えながら、大覚寺に向かって歩いた。


有栖川から車折神社

梅宮大社から北に向かって歩いていくと、程なくして有栖川にぶつかる。

嵐山を遠景に、田圃道の中を蛇行して流れ、「葺のまろやに 秋風ぞ吹く」という風情ではあるが、昨今はすっかり開発が進んでおり、残念ながら、その世界を感じられるのもわずかで、30分ほどで、車折神社に着く。


訪れた時期は、観光シーズンから外れているにも関わらず、境内は、多くの若者たちで溢れていた。境内にある末社の「芸能神社」(昭和32年創建)での参拝のようだ。

車折神社の祭神は清原頼業(平安時代後期の漢学者・儒学者)であるが、清少納言が、その一族であるとのことで「清少納言社」として祀られている。「芸能神社」のルーツは、この辺にあるのかもしれない。

この神社の5月の祭礼として行われているのが「三船祭り」である。宇多天皇が嵐山で船遊びをされたのが始まりであるとされ、「三船」の名は白河天皇が大堰川行幸の際、「漢詩」「和歌」「奏楽」の三隻の船を浮かべたことに由来している。

「三船の才」とは、どの船にでも乗れる、漢詩、和歌、奏楽のいずれにも才能があるということを比喩する表現である。源経信、藤原公任は、いずれも「三船の才」と謳われたが、車折神社が「千代の古道」の中間地点にあるのも、何かの因縁であろうか。


広沢池を経て、大覚寺を目指す

車折神社から市街地を通り抜け、有栖川の脇を歩き、広沢池に出ると、まさに嵯峨野である。

広沢池の西側には兒神社があり、そこを過ぎると、幹線道路から外れ、農道のようなところを歩くことになる。この広沢池から大覚寺までの畑道は、「葦のまろや」こそないものの、嵯峨野の風情を充分に満喫できる。

広沢池から20分ほどで大覚寺に辿り着く。前述のように、淳和天皇皇后である正子内親王が嵯峨離宮を改め、承和の変で廃太子された息子の恒貞親王を初代住職として開創した寺である。


承和の変で、母・嘉智子に、息子を廃太子された正子内親王は、母をたいそう恨んだと伝えられている。当時は、3月3日に母子草を摘んで草餅を作る風習があったが、嘉智子が亡くなると母子草は生えなかったという。これは母(嘉智子)と子(正子内親王)との関係が切れため・・一種の怨霊ではないかと巷では言い伝えられた。


大覚寺、名古曽の滝

大覚寺の東に、中国の洞庭湖を模して造られた、日本最古の人工の林泉、大沢池がある。

この北側に名古曽の滝跡がある。大沢の池に流れ込む流路、高低差を付け、人工的な滝を築造したのであるが、平安中期には既に、滝は涸れてしまっていたようだ。


この流れが絶えたことを詠んだのが、もう一人の「三船の才」、藤原公任である。

 滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ


滝の流れる音は、聞こえなくなって久しくなったが、その名声は、今もなお広く世間に流れ伝わっている。

この歌の真意は、「一時の権力者としてより、文化人・芸術家としての名声の方が長続きする」こう指摘する人が少なくない。

公任が伝えたかったのは、この点であることは間違いなさそうだが、私はもう少し深掘りして考えている。


承和の変のその後

嘉智子と藤原良房は、両統迭立の考えを捨て、仁明の皇統で継ぐことを画策したことは既に述べたが、恒貞親王に代わって践祚したのが藤原良房が娘を入内させた文徳天皇である。その文徳の孫にあたる陽成天皇が粗暴であったことから、時の関白・藤原基経(良房の養子)は、陽成に譲位を強要、良房が廃太子した恒貞親王に天皇即位を要請する。恒貞はこれを辞退し、結果花山天皇が即位することになるが、仁明天皇が即位した際、嵯峨天皇により選ばれ皇太子となった恒貞親王の評価は、承和の変(842年)から40数年経ても、未だ衰えることはなかったということである。


藤原公任と道長

公任と道長は、基経から見ると、玄孫の世代で、同じ歳である。

公任の祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務めており、氏の長者とも言える血筋である。

しかし、一条天皇の即位に伴って、藤原兼家が摂政となり、兼家の息子で同じ歳の藤原道長は、一挙に従三位まで昇進、公任は位階を抜かれてしまう。


こういったことが朝廷への不満となり、藤原氏の公卿ほぼ全員が供奉した一条天皇の大原野神社への行幸に、公任は不参という事件を起して、一時参内を止められる。

その後、執政の座は藤原道長に移っていく。一方、公任は14年ぶりに昇叙されて従三位になり、この頃より道長に接近するようになる。

その年の秋、道長に随行して西山に紅葉を尋ね、

大覚寺で詠んだ歌が滝の音は・・・」である。

公任は道長を意識して、歌で「名を残す」との

思いを込めたのがであろうが、加えて、大覚寺の

開祖で、廃太子されたものの評判が高く、皇位

継承を要請された恒貞親王に、本来であれば関白

の血筋である自らを、重ねていたのではないか、

と私は考えている。

後世に、公任、道長、いずれも名をしっかり残している。

公任は、「三船の才」として、道長は、「日本一傲慢な男」*1として。


*1;「天皇の日本史」 著者 井沢元彦 角川文庫

 
 
 

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