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3 大徳寺から建勲神社を歩く 

  • 執筆者の写真: Hase Mac
    Hase Mac
  • 2023年6月3日
  • 読了時間: 8分

更新日:2023年10月13日

京都には織田信長ゆかりの遺跡が数多くある。

墓だけでも5ヶ所(本能寺、大徳寺総見院、阿弥陀寺、大雲院、妙心寺玉鳳院)ほどある。


宮内庁は大正時代に、「阿弥陀寺の信長公墓が廟所である」と結論づけてはいる。


京都駅から、大徳寺に向かうには、バスが便利である。

堀川道路沿いに走る路線に乗れば、西本願寺、本能寺跡、二条城、晴明神社、白峯神宮、水火天満宮などを左右に見ながら、30分ほどで堀川北大路に着く。ここから大徳寺までは300mほどである。


雲林院に立ち寄る

大徳寺に向かう前に雲林院に立ち寄る。大徳寺の東南の角、道を挟んで南側に位置する、小さな

寺で、現在は大徳寺の塔頭である。

元々、この付近一帯は、淳和天皇の離宮・紫野院として造成された地で、その後、仁明天皇の離宮となり、869年僧正遍昭(六歌仙の一人)により天台宗の寺院、雲林院となった。

紫式部は、この地、紫野で生まれたことに因んで名付けられたとされ、産湯も雲林院にあるとされているが、現在は大徳寺の中でも北に位置する真珠庵に「紫式部産湯の井戸」として残っている。すなわち、昔の雲林院は広大な敷地を有していたことが伺える。

しかし鎌倉時代に入り衰退の途を辿り、その地を、大燈国師が譲り受け、臨済宗・大徳寺を創建、貴族や武士、商人からの帰依や支援を受け、また戦国時代には、大阪・堺の商人から手厚い保護を受けて発展していく。一方、雲林院は大徳寺の塔頭の一つとして今日に至っている。


大徳寺へ

大徳寺に南門から入ると、左手に黄梅院がある。信長は初めて上洛した28歳の時(1561年)、父信秀の追善菩提のために小庵「黄梅庵」を建立している。この時、造営に携わったのが寺社奉行であった秀吉である。信長の後継者であることを天下に示すために、総見院で一周忌法要を行なったのは、この黄梅庵の建立から21年を経てのことで、終始、信長に仕えてきたことを誇示するのに、大徳寺は相応しい場所であったのであろう。

秀吉は、法要を行うにあたり、香木で「信長公木造坐像」を二体作らせ、一体は、遺体の代わりとして本能寺の灰とともに火葬に付し、現在、総見院で見ることができるのは、残された一体である。


本堂の西側が墓域となっており、奥に、信長をはじめ徳姫、濃姫など一族七基の五輪塔が並んでいる。東の方角を仰ぐと、信長が焼き討ちを命じた比叡山を望むことができる。


建勲神社へ

大徳寺南門まで戻り、北大路を横切り、南に下ると、建勲通にぶつかる。ここを西に曲がれば、正面に建勲神社の鳥居が見える。


明治2年(1869年)明治天皇が「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた信長のおかげ」として、健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建を決定した。

これが建勲神社のルーツである。


因みに、明治時代に創建された神社で一番古いのは、京都霊山護国神社で、明治元(1868)年に東山に創建の詔が発せられている。幕末の志士が数多く眠る、日本初の招魂社である。

京都市内では2番目が、明治2年の建勲神社。東京靖国神社も明治2年であり、信長への思い入れが強かったことを伺わせる。

維新の原動力となった急進派公家、三条実万・実美親子を祭神とする梨木神社、皇統を護ることに尽力した和気清麻呂を祭神とする護王神社、桓武天皇、孝明天皇を祭神とする平安神宮、これらよりも古い。


なぜ、信長が明治天皇に評価されていたのか?

江戸時代後期の歴史家で「日本外史」を著した頼山陽が「信長の覇業こそが、豊臣・徳川の平和に続く道を作った」と評価、勤王家として強調、幕末の尊皇攘夷運動が、この評価を一層高めることになったとされている。


信長は、正親町天皇を保護する名目で京都を制圧、経済的に逼迫していた皇室を回復させたことは事実であるが、一方で、敵対勢力に対し、天皇の権威を自らの野望実現に利用していた側面も否めない。

幕末における勤皇家としての評価は、徳川家を天皇に対して不忠であると批判するために、信長を殊更に持ち上げるという側面もあったとも言われている。

建勲神社のある船岡山は、京都遷都にあたって、四神相応の玄武にあたる地である。

50mほどの高さを階段で登り、建勲神社の境内に立つと、京都の街並みと東山三十六峰の山々を見渡すことができる。


何故、信長は討たれたのか?光秀を信頼していた?

信長を話題にするには、光秀による謀反を避けて通るにわけにはいかない。

まず光秀に野心があったとしても、信長に兵力が備わっていたならば、達成は叶わなかったはずである。当時、信長は、毛利、上杉、長宗我部と大きく三方面で戦っている。毛利には秀吉、上杉には柴田勝家が、長宗我部には織田信孝が、それぞれの戦場へ赴いていた。更なる勢力拡大のため、結果論ではあるが、軍を分散していたことになる。

本能寺の変の時点で、京都近辺には、明智軍しかいなかった。本能寺に向かった明智軍は13,000人の大軍、一方、本能寺の信長は諸説あるが数十人から150人程度、嫡男信忠は妙覚寺にいたが、これも1000人前後であった。逆に言えば、信長が光秀を信頼していた証であろう。


光秀の心境

「本能寺の変」の前年(1581年)、織田家の天下掌握を内外に知らしめるため、軍事パレードとも言える「京都御馬揃え」が行われた。この時の総括責任者が光秀であり、信長に次ぐ、ナンバー2の地位であることを示す場でもあった。  


同じく1581年6月、光秀が家法として定めた『明智家法』の後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と信長への感謝の一文を書いている。(謀反の約1年前)


私の中学時代の知己に、明智光秀の側室の子孫である明智憲三郎氏がいる。彼は、何故、光秀が信長に対し、謀反を起こしたのか、その理由を解明しようとしており、次のように記している。*1

 1582年1月6日、光秀は坂本城より安土の信長に年始の挨拶に出向き、天下統一まで、および統一後

 の計画を話し合っていた。翌日は、茶会を催し、床の間には信長自筆の書を掛けるなど穏やかな正月

 であった。

謀反半年前の心境である。


光秀、謀反の動機

多くの歴史家が探っているが、確たるものはわからないのが実態である。

・怨恨説

・黒幕説

・前述の明智憲三郎氏の説は下記の通り(要約)。

  安寧な世を求めて信長の天下統一を支え続けてきた。

  武田を討ち、毛利、長宗我部、上杉氏を討とうとしているが、その先、信長は唐を目指している。

 武将が目指すべきは、一族の繁栄、子、孫の世代の繁栄だ。

  自分が目の黒いうちに問題(果てしない信長の野望)を解決せねばならないと思い詰めた。

光秀、この時67歳、嫡男の光慶は10代半ばであった。

どの説が正しいのかはわからないが、謀反に傾いていくことになる。

事が起こった後でさえ、人の心は分からないとうことである。


リーダーの器、視観察(論語為政編)

謀反、裏切りとは、為政者への反逆であり、また従来培われていた信頼関係が損なわれ、失われたことによって生ずると言えよう。

信頼を裏切った人間は、自らの罪を軽減するため、相手に(にも)非がを有るように取り繕う。

よくあるのが、「気持ちを理解してくれない」「意向に反して」・・心に秘めたことを理解して接してくれていたら、こんなことにはならなっかたのに・・相手に責任を転嫁することで、自らの罪の意識を軽減させようと試みる。


ただ、論語では「秘めた心の内を見抜くのが君主だ」と指摘しているように読める。

齋藤孝氏の口語訳を以下に記す。*2

 その人がどう行動するか(視)、何をよりどころにしているか(観)、何に満足するか(察)、

 この三点がわかったなら、その人物の本質は、はっきりする。決して隠せるものではない。

行動を視、動機を観、何に満足するかを察することが、為政者すなわちリーダーに求められるということのようである。


問題は「察する」である。動機も心理的な揺らぎのようなものは「察する」のと同じであろう。要は相手が何で満足するのか、何を欲しているのか、リーダーは、常に意識し、対処せねばならないこととなる。

これが正しいとするならば、相手の心の中を読めず対処できないのは、リーダーの器に欠ける、信頼を裏切るに至った結果は、リーダーの責任でもあると、裏切った人の言い訳に正当性を与えることになる。


確かに、孔子は、策略により窮地に追い込まれたことがある。その時、相手であった少正卯を捉え、処刑した。処刑までするのかと、弟子に問われた時、孔子は、5つの大罪を挙げ、「その一つでも当てはまれば、道理を熟知した君子による刑罰は免れない」と答えている。その大罪の一番目に挙げられているのが「内心が正道に背き陰険であること」である。

相手の心を読み、ことによっては、処刑するのも辞さない(一種の思想弾圧)、というのが孔子の考えのようだ。この少正卯の件は、論語ではふれられていないが、孔子の中では論理が一貫している。


信長も光秀の心の中は読めなかった、シーザーもブルータスの心の中を、キリストに至っては、最後の晩餐で「この中に裏切り者がいる」とまで断じながら対処できなかった。


孔子に言わせれば、「皆、リーダーの器でなかった」ことになる・・・本当であろうか?


「孔子による少正卯の処刑」に関しては、「史記」「荀子」には記述があるものの、「論語」にはない。孔子の高弟は、「君子の行いとして相応しくない」と考え、記述しなかったのか・・・


*1;光秀からの遺言 明智憲三郎著 河出書房新社発行

*2;論語      齋藤孝著   筑摩書房発行



 
 
 

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