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2 天龍寺から宝筐院へ歩く

  • 執筆者の写真: Hase Mac
    Hase Mac
  • 2023年6月3日
  • 読了時間: 7分

更新日:2023年6月24日

嵐電嵐山駅を降りると、目の前が天龍寺である。この付近では、和服姿の若者、さらに外国の方も多く見受けられる。日本の文化に浸り、日本人の心を理解しようという姿に、拍手をおくっている。


天龍寺は、夢窓疎石に勧められ、足利尊氏が後醍醐天皇の崩御に伴い、冥福を祈るために建立した寺である。建武の新政を始めた後醍醐が、疎石を招き臨川寺の開山を行ったが、この時の勅使役が尊氏で、以後、尊氏も疎石を師と仰ぐこととなった。

その後、後醍醐と尊氏は離反、南朝の後醍醐に対し、尊氏は北朝を担ぐこととなる。そのような中、後醍醐は崩御するが、疎石は尊氏に寺の建立を勧めたということである。


疎石よる天龍寺の庭は、嵐山、亀山を借景とし、空が広く、開放感がある。庭の中央に大きな曹源池を配し、龍門瀑を含んだ、禅宗の庭に特徴的な石組みが設けられている。龍門瀑は、中国黄河にある流れの激しい三段の滝を、鯉が登ることができたら龍と化して天に昇る(登竜門の語源)という故事に倣ったものであり、天龍寺の名に相応しい石組みである。


宝筐院へ

白河天皇勅願寺であった善入寺を、夢窓疎石の高弟である黙庵禅師により室町幕府の第二代将軍足利義詮の庇護を得て中興された寺で、宝筐院とは、義詮の院号に因んでいる。

宝筐院へは、天龍寺前の道をまっすぐ1km強北上し、清涼寺の仁王門の前を左折すれば、100mほどで辿り着く。


庭は、黙庵の手によるが、天龍寺の庭とは趣が異なっている。白砂によって池、川が描かれ、築山には楓を主とした木々が植わり、秋には美しい紅葉が楽しめる。夢窓疎石の代表的な庭には天龍寺と西芳寺があるが、宝筐院の庭は、木漏れ日を愛でるという点では、西芳寺の庭に近いと言えよう。

          宝筐院               天龍寺               西芳寺


ここの紅葉は、市内屈指の名所であると思っているが、もう一つ、この寺を有名にしているのは、楠木正行と足利義詮という、敵対していた二人の墓が隣り合って建てられていることである。


楠木正行と足利義詮の墓(右写真)

宝筐院と足利義詮の深い関係は前述のとおりであるが、南朝を代表する武将の楠木正行もまた黙庵に帰依していた。その正行は、四條畷の戦いにおいて敗れたが、黙庵はその首級を寺内に葬っている。


後に、正行の話を聞いた足利義詮は、その人柄を褒めたたえ、「自分もその傍に葬るように」と遺言し、義詮が没すると、正行の墓の隣に葬られたのである。(「宝筐院パンフレット」より)


この説話は事実とは考えられないと指摘する歴史学者も居る一方、足利一族が楠木氏を高く評価していたことは事実のようである。


川崎芳太郎翁と宝筐院

明治の初めに宝筐院は廃寺となった。明治24年、当時の京都府知事が正行の遺跡が荒れているのを知り、由来を記した「欽忠碑」を建てたが、寺そのものの復興は叶うことはなかった。

そんな中、正行ゆかりの遺跡を守ろうと天龍寺管長・高木龍淵禅師が、川崎芳太郎翁に、「小楠公(正行)の遺跡を顕彰するの志」を告げ、これに対し、翁は「大に之れを賛成し、努力を惜しまず」と応じた、との記述*1が残されている。川崎正蔵翁が開基した徳光院は臨済宗天龍寺派で高木龍淵禅師の開山であり、この繋がりから芳太郎翁へ話が持ちかけられたのである。

大正6年、廃寺から50数年を経て、宝筐院は再興されたが、伽藍の屋根には、楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦が用いられており、芳太郎翁が楠木一族を敬慕していたことをうかがわせる。


木正行の何を讃えたのか

義詮が讃え、高木龍淵禅師、芳太郎翁が後世に伝えたかったことは、なんだったのか。


正行について、湊川神社のホームページには「住吉天王寺の戦いで、多くの敵兵を救出し、暖を取らせ、衣服を与え、傷を治療し、亰に帰る兵に馬まで与えたという、赤十字加盟の逸話も残るほど、義と優に溢れた武将」と記されている。


この振る舞いは、「闘戦経」を学んでいたからであろうと推察している。

同じHPにおいて、「正成は、兵法を毛利時親に師事し」とある。この毛利時親は「闘戦経」を記した大江匡房の子孫(6代目)で、楠木正成に教えていたのである。


闘戰経とは

「闘戦経」は武士道精神の原点になったとされ、斉藤孝氏は、「日本人の闘い方」*2で、次のように紹介している。

 その当時は特に「孫氏」が広く世に知られていましたが、大江匡房は「孫氏」の説く「兵は詭道な

 り」つまり「戦いの基本は敵を欺くことにある」という兵法はどうしても日本人のスタイルではな

 い、と考えたのです。

 「戦いというのは、ただ勝てばいいのではない。ズルをして勝つのではなく、正々堂々と戦うべきで

 ある」と、中国ではなく日本の戦うスタイルを宣言しました。それが「闘戦経」なのです。


戦略・戦術を「孫氏」に学ぶ将は、併せて、精神・理念を「闘戦経」から学ぶことが必要であるという考えである。

その教えが、正行をして「敵兵を救出し・・・義と優に溢れた武将」として謳われる背景にあったと推察する。


足利義詮にとっての武士像

当時の武士の多くは、自らにとっての「利」、欲を満たせるか、それが判断基準であった。

そこには、「義;正しい行いは何かを考え、それに従って行動する」という考えは希薄であった。

尊氏が九州で再起を図ろうとしたとき、立ちはだかったのは後醍醐天皇側・肥後菊池軍で、多々良浜で対峙した。尊氏軍2千騎、相手方2万騎、当面勝ち目はないと思われたが、相手方は勝ち戦に乗ることで「利」を得ようとする衆に過ぎなかったため、これを撃破することができた。

義詮は、こういった経験に加え、自らの名前である義詮「義を明らかにする」という意味を楠木一族の生き方に重ね、武士のあるべき姿を見出そうとしたのではないかと考える。


芳太郎翁が伝えたかったこと

多くの武士の判断基準である「利」を眼前にぶら下げ、味方に引き込む・・多数派工作することが当たり前の世の中であった。


その結果、「義」を大事にしたとしても、楠木正成、正行のように負けてしまうことがある、いや負けることの方が多かったのであろう。

そうであったとしても、そうだからこそ「義」を大事にして欲しいというのが、宝筐院を再興し、菊水の紋を瓦に刻した、芳太郎翁、龍淵禅師の想いであったのではないか … 。


現代では、さすがに武力に任せて雌雄を決することは少なくなっている。

しかし、民主主義という美名のもと、多数派が勝利することには変わりがない。

「利」をぶら下げ、多数派工作すれば、何が正しいか議論する必要もなく結論は出てしまう。


先の大戦後、民主主義を取りいれることになったが、これを正しく理解するため、文部省が著した「民主主義」(角川ソフィア文庫)という本がある。そこでは次のように記されている。

 民主政治は「多数の支配」で、多数で決めたことが国民全体の意志として通用する。

 しかし多数の意見だからといって、その方が少数意見より正しいということは決してない。

 多数決の弊害を防ぐには「言論の自由」が伴っていなければならず、それが民主主義の安全弁であ 

 る。ただ多数決主義だけをふりまわすのは、民主主義の堕落した形であるにすぎない


現代においても、議論もなく、多数決という力のみにより決議するケースが少なからず見られる。

議論をするということは、参加者一人一人の「義」を披瀝し合い、組織としての「義」を追求し、これに従って組織活動を行おうということであると言える。

しかし、この議論を取り仕切る者が、自らの意志に沿うよう、数により結論を方向づける···このような行為が民主主義を崩壊させると、文部省が危惧し、発刊したのが前述の書籍である。


天龍寺付近で見られる和服姿の若者たちが、日本の心に触れようとするのであれば、闘戰経の示す「戦いというのはただ勝てばいいのではない、正々堂々と戦うべきである」を意識し、その上で「一人一人が、自らの正々堂々たるを披瀝、議論し、組織としての方向を導き出す、民主主義のあり方」を貫いて欲しいと願う。


宝筐院の中を歩き回った折、「川崎」の名を探してみたが、見つけることはできなかった。

自らを決して誇示しない、その在り方を誇りに感じ、芳太郎翁の宝筐院再興への想いを自分なりに捉えながら帰途についた。


引用文献 *1:「川崎芳太郎」 著者 岩崎虔  出版者 岡部五峰 大正10年出版

        (国立国会図書館デジタルコレクション)

     *2;「日本人の闘い方(日本最古の兵書『闘戦経』に学ぶ」

         著者 齋藤孝 致知出版社



 
 
 

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