1 太秦を歩く
- Hase Mac
- 2023年6月3日
- 読了時間: 5分
更新日:2023年6月24日
数十年ぶりに広隆寺に足を運んだ。桂宮院、講堂は修理のため拝観できず、聖徳太子から賜った弥勒菩薩像が収蔵されている霊宝殿を訪れ、次を目指すこととした。

広隆寺から東に歩いて10分ほどに、通称、蚕ノ社(木島坐天照御魂神社)がある。
この社で有名なのが、三柱鳥居(右写真)で、三本の柱から構成され、真上から見ると、三角形を描いている。地上に立つと、三方向のいずれからも、鳥居の形に見える。鳥居は、神域と俗界の境界を表しているので、三柱鳥居では、その中心が神域ということなのだろうか?
蚕ノ社は、その名の通り、蚕を祀った神社で、西陣織が発達したのも、秦氏が養蚕の技術を日本に持ち込んできたからである。
蚕ノ社から戻り、広隆寺を更に西、歩いて10分ほどの住宅街に、蛇塚古墳という周囲200m強の前方後円墳があるが、秦氏族長の墓と言われている。
一帯が太秦というくらいだから、秦氏の勢力圏であったことは間違いない。
そんな秦氏の存在を示す遺跡、持ち込んできた技術を肌で感じながら、別のことを考えていた。
桓武天皇誕生
歴代天皇で、桓武天皇の知名度は、かなり上位であろうが、その即位の可能性は、ほとんどあり得ないものであった。(不動氏が相信第44号、45号に詳述されています。)
この点を理解するには、「壬申の乱」(天智天皇崩御後、天智の皇子と弟が、天皇の座を巡って争った)にまで遡る必要があろう。
この乱で勝利した弟、天武天皇は、同じような係争を避けたいと、後の持統天皇との間に生まれた草壁皇子の直系で皇統を守ろうとした。この皇統を守るため、女性天皇が誕生することにもなった。草壁皇子の孫にあたる聖武天皇は、更に条件を厳しくする。聖武には、県犬養広刀自との間に皇子が居たにも関わらず、藤原光明子が生んだ阿倍内親王(後の孝謙天皇)を皇太子とした。藤原氏の妃が生んだ皇子を天皇の座に付けたいと、孝謙に天皇の座を譲り、光明子との間に親王が誕生することを期待したのであったが、その望みは叶わなかった。
聖武が崩御後、孝謙は、一旦、天皇の座を、天武天皇の孫ではあるが、草壁皇子の血筋ではない淳仁天皇に譲位し、自身は太上天皇になったが、その後、争いとなり(仲麻呂の乱)勝利した太上天皇は、淳仁を廃し、重祚し称徳天皇となった。その時47歳、自らの血筋を継ぐ人もなく皇太子を決められないまま崩御した。
この後、皇統を巡り、天武天皇第七皇子の子である文室大市を推す吉備真備と、聖武天皇の内親王(称徳とは異母姉妹)である井上内親王が妃となった白壁王(天智天皇の孫)を推す藤原永手、百川の二派に分かれた。
白壁王には、井上内親王の間に、他戸親王が誕生しており、いずれ他戸親王に引き継ぐことで、天武、草壁皇子の血筋は守れると、重鎮の吉備真備を説得、白壁王が即位、光仁天皇が誕生した。
光仁には、井上内親王の他に、渡来系の高野新笠との間に、山部親王(後の桓武天皇)も誕生していたが、当時の慣例通り、皇后との間にできた親王、すなわち他戸親王が皇太子となった。
この時点で、山部親王の天皇の芽はなくなったはずであった。
ここで暗躍したのが、藤原良継、百川の兄弟である。
まず「井上内親王は、息子である他戸親王が早く天皇になれるようにと、光仁天皇を呪詛している」と光仁に働きかけ、皇后を廃した。その後、他戸親王も廃太子となるが、井上内親王、他戸親王は、同日亡くなっており、明らかに、暗殺であろう。
この半年後、山部親王が皇太子となり、更に781年には天皇に即位、桓武天皇となった。
井上内親王、他戸親王の暗殺に桓武がどの程度関与していたか、歴史書には記述がない。歴史書は、常に勝者の手で、都合の良いように改竄されており、記述がないとの根拠だけで、桓武が関与していなかったとするのは、勝者に阿ることとなる。
藤原良継の娘、乙牟漏は桓武がまだ親王の時代に入内し、後の平城、嵯峨の二天皇を産んでおり、
藤原兄弟は、血筋が天皇となることを願いつつ、桓武と示し合わせての策謀であったと言えよう。
桓武天皇の誕生が、策謀であったとしても、そこに藤原兄弟の貢献があったことは紛れもない事実である。
秦氏
秦氏は、中国から新羅を経て渡来、目指したのが福岡県の香春岳で、ここからは、さまざまの鉱物が採掘され、秦氏の財源となった。
聖武天皇の東大寺大仏建立には、銅の採掘、鋳造、メッキの技術が必要で、これらは秦氏に頼られていた。使用された銅は500トンと見積もられているが、この輸送には瀬戸内海を海上輸送されたと思われる。牛窓には、秦氏ゆかりの牛窓神社があり、「聖武天皇から船の建造を命じられた」との記録も残されている。
遷都
平城京は、天武系の地盤であり、また東大寺、興福寺からの圧力を避けるため、桓武は遷都を目指し、選んだのが桂・木津・宇治川が合流する乙訓地方(現在の長岡、向日市)であった。
その背景には、500年ごろからこの地に勢力を伸ばしていた秦氏の存在がある。
桓武の生母である高野新笠は百済の武寧王の後裔で、帰化氏族の血脈につながっていることも影響していたであろう。
長岡京遷都には、その責任者として藤原種継が選ばれているが、種継の母は秦氏の娘であり、遷都にあたって、秦氏の協力を期待していた節がある。
この種継が暗殺される。桓武は、その首謀者として、無実であったとされる弟の早良親王を死に追いやった。その祟りに怯え、加えて氾濫も起き(天変地異が起きるのも怨霊の仕業と考えられていた)、長岡京を棄てることとし、選ばれたのが、同じ山背の京都であった。
この新都建設にも秦氏は尽力、本拠地であった桂川(当時は葛野川)一帯は,建設に必要とする材木の陸揚げ基地となり、護岸工事、その周辺の耕作地化、養蚕、機織りといった技術で、京都遷都、発展に貢献した。
度重なる遷都には、経済的にも困難が伴ったであろうが、成し遂げられたのも、技術力に加え、財力を有した秦氏の存在があったからとされている。
藤原氏と秦氏の貢献
京都の町が出来るためには、「桓武天皇の即位」と「遷都」の二つのステップが必要であった。
大雑把にいえば、即位には藤原氏が、遷都には秦氏の強い支援があったと言える。
しかし、両氏のスタンスは、基本的に異なっていた。
藤原氏は、天武系から天智系に皇統が変わろうとも、自らの血筋から天皇の誕生を目指し、桓武擁立を謀った。
秦氏は、技術、財力で、京都への遷都と発展を支えた、
企業に例えると、前者は「利益第一主義、時として手段を選ばず」、後者は「社会への貢献第一、利益はその結果」、太秦を歩きながら、そんなことを考えていた。
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