足利尊氏、トランプ大統領、民生の安定
- 2025年9月30日
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須磨から板宿を歩く
山電須磨駅で降り、ホーム下のトンネルをくぐり北側へ。そこから細い、急な道を登り、しばらくして東に折れると関守稲荷神社がある。小倉百人一首「淡路島、かよふ千鳥・・・須磨の関守」、関の守護神が祀られている。須磨の関跡は、100mほど東、光源氏と関わりが深い現光寺に石碑がある。この寺のすぐ南には、西国街道が走っており、都から下ってくれば、畿内の西の隅(スミ)に当たり、このスミが須磨の語源とも言われていることからも頷ける。
関守稲荷神社 須磨の関跡碑 現光寺
西国街道を東に歩くと、震災後整備が進められたためか、歴史を物語るものはわずかである。400mほどで菅原道真公お手植えの松(切り株)、さらに進むと、月見山線(道路)と交差する角に、高さ2m余りの「多井畑厄神の石標」がある。明治17年建立とあるので、震災による被害を免れている、まさに「厄除け」のご加護なのであろう。
菅公お手植えの松 厄除八幡神社石標
月見山は、菅原道真公の太宰府への下向より数十年前、光源氏のモデルと言われている、在原行平がこの地に蟄居していたゆかりの名で、その他にも衣掛、松風、村雨町として残っている。さらに東に向かうと、妙法寺川にぶつかる。川沿いは公園になっており、桜の名所である。川沿いに北へ進み、證誠神社の傍を通り、駅を右手に見て進むと板宿町に入る。菅原道真公が太宰府に向かう途中、時化で舟待ちすることになった折、里人たちが神社境内に板で作った簡単な宿を用意したとされる。これが板宿の由縁だそうだ。その板宿八幡神社へ向かう。建て込んだ家々の間を、電柱に掲げられた標識を頼りに、息を切らして登ったところに神社がある。
境内からは板宿・須磨の街を眼下に、兵庫、さらには神戸空港が望める。
板宿八幡神社 神社からの眺望
菅原道真公ゆかりでは板宿に加え、飛松町があり、また飛松町に接して、大手町がある。
神社から西に「飛松が岡」または「松岡」と呼ばれる丘陵が連なっており、そこが「太平記」に出てくる「松岡城」で、位置的には勝福寺付近とされ、大手門に因んでの町名のようである。
観応の擾乱の際、打出浜(現、芦屋)から敗走した足利尊氏は、松岡城で自害しようとしたが、その直前、直義との和議が成立したとの知らせが入り、思いとどまることとなった。その場所が、勝福寺歴代住職の墓地付近と言われ、「ハラキリ堂」と呼ばれている*1が、現地を訪れても、そのことを示すものは何もない。
勝福寺山門 ハラキリ堂と呼ばれる地
尊氏は、3回、神戸の地で戦っている。勝利したのは湊川の合戦(1336年7月)であるが、その年の2月同じく打出浜で楠木正成、新田義貞、北畠顕家軍との戦いに敗れ、兵庫津に逃げてきている。この様子が「太平記合戦図 歌川芳虎」として残されている。兵庫駅の東側の柳原蛭子神社、その北側、西国街道を挟んで福海寺がある。その入り口に合戦図とその由縁が次のように記されている。「足利尊氏公が新田義貞軍に追われた際に、福海寺の前身である針が崎観音堂に避難する様子。これにより命拾いされた足利尊氏公は、康永三年(1344年)に報恩のため福海寺を開かれました」
針が崎観音堂に身を潜め、一命を取り留めた尊氏は、兵庫から出航、九州で勢力を立て直し、再上陸、湊川の合戦で勝利することになったことを記したものである。
神戸市内を歩き、足利尊氏が敵役として登場する遺跡は多くあるが、尊氏を主に記されたものは、この福海寺の壁に掲げられた説明書と、門入口に最近建てられた「征夷大将軍足利尊氏公」の石塔にしか見ることができない。やはり、戦前の皇国史観に基づく「尊氏=逆賊」の影響であろう。
尊氏は何故、逆賊となったのか
承久の乱後、鎌倉幕府は天皇の即位に口を挟みようになり、その結果誕生したのが、後嵯峨天皇であった。即位4年後に、満2歳の後深草天皇に譲位、さらにその弟に譲位、亀山天皇を即位させるなど、治天の君として振る舞った。その後、後嵯峨上皇は、後継者を定めずに崩御、幕府は、両天皇の生母である大宮院の意向を聞き入れ、後継者を亀山天皇と定めた。亀山天皇は期を逃さず、2年後、7歳の後宇多天皇に譲位し、治天の君として院政を開始、一方、これに不満を抱いた後深草上皇は、太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明した。
この事態に、執権北条時宗は、後深草上皇の皇子(後の伏見天皇)を、立太子させることとした。
これが両統迭立の始まりである。
この経緯もあり、後深草上皇を始祖とする持明院統は、両統迭立を旨とする幕府と運命を共にする考えに、一方、亀山上皇を始祖とする大覚寺統の主導権を握った後醍醐天皇は、自らの皇統を立てるため幕府との対決姿勢を示すようになった。
最初の倒幕計画(正中の変)は事前に漏れたが、その後も姿勢は崩さず、後醍醐天皇は、1331年京を脱出し、笠置山に陣を置いた。しかし、幕府軍に攻め立てられ陥落、この結果、持明院統の光厳天皇が即位、翌年3月、後醍醐天皇は隠岐島への流罪となった。
1332年11月、後醍醐天皇の皇子・護良親王が、楠木正成とともに再び挙兵、これをきっかけに反幕府運動が急速に展開することとなった。
この反幕府運動を後押ししたのは、幕府、特に得宗家に対する武士の不満であった。
北条氏嫡流による得宗専制政治は、権力の一極集中を生んでいた。これは蒙古襲来という危機に際しては有効に機能したが、有力御家人との対立要因ともなった。蒙古襲来を契機に、西国を中心に諸国守護の過半は北条氏一門になり、さらに有力御家人との政争によって所領はつぎつぎと得宗領になっていった。一方、二度の蒙古襲来、防衛には成功したが、「戦利品」はなかった。従来通り、家来たちは褒美を期待するが、防衛戦に勝っても一片の土地も手に入らない。命がけで戦ったのに褒美がもらえないと、武士に不満がたまっていった。
尊氏は、源義家(八幡太郎)を祖にもつ源氏の名門である。源宗家断絶以来、北条得宗家主導の幕府に対し、歯痒い思いをしていたことに加え、名門であるが故に、反得宗家の武士たちの首領として担がれた。幕府の任を受け、護良親王、楠木正成の鎮圧に向かったものの、隠岐を脱出した後醍醐天皇が発した朝敵追放の宣旨に応じて、反旗を翻すこことなった。
1333年年5月六波羅探題軍を壊滅、光厳天皇は廃位させられた。
東国でも新田義貞が挙兵、鎌倉に軍を進め、得宗・北条高時は自害、鎌倉幕府が滅亡した。
建武の新政とその終焉、武士の不満
後醍醐天皇の政治理念は、すべての政治的決定を自らの判断で、綸旨を用い公布する、綸旨で人々を直接支配する、君主独裁制であった。天皇を中心とした公家一統政治を目指し、武士はあくまで権力の走狗であればよいという考えであった。当然ながら、武士は冷遇された。
天皇は、誤判再審令・朝敵所領没収令などを次々と発布する。
誤判再審令は、鎌倉幕府の裁判の誤りを正すという目的で、過去にさかのぼって裁判を行うことで、鎌倉幕府や御家人によって奪われた公家の所領を回復させることとなった。
朝敵所領没収令も、武士たちの不安・不満を募らせた。朝敵の範囲は、旧幕府側についた武士・貴族であったが、「朝敵」と「官軍」の区別を明確にしなかったことで、朝敵の範囲は解釈次第で限りなく拡大できることとなった。足利尊氏・新田義貞も、1333年4月までは「朝敵」だった、大勢が逆転したのちに倒幕側に加わった武士、尊氏の勧告によって幕府軍をはなれた武士は朝敵なのかそうでないのか明らかにされなかった。彼らを朝敵と認定し所領を没収するかどうかを決めるのは、後醍醐天皇、公家らの裁量にゆだねられた。
天皇は、北条氏らの武家から取上げたおよそ50か国を貴族たちにあたえ、国司や守護に任命、貴族たちは富をほこり、贅沢をし、困れば、支配下にある武士の土地からしぼりとればよいと考えるようになった。武士の生活が苦しくなれば、その下で働く農民にも皺寄せがいく。武士たちは、建武の新政を批判、不満を持つようになった。
こういった不安と不満の声が、足利尊氏を突き動かしていくことになる。新政権に足場を築くことができないでいた尊氏は、徐々に後醍醐天皇に圧力を加えていくことになる。
1335年7月、北条高時の遺子により鎌倉が占領され、尊氏の弟、直義が敗走、京都にいた尊氏は、救援のため勅許を得ないまま東下、乱を鎮圧した。10月、天皇の上洛命令に応ぜず、逆に新田義貞誅伐を奏上し、ここに建武新政に公然と叛旗をひるがえすにいたった。
尊氏・直義は、追討のため東下した新田義貞軍を箱根の戦いで破り西上、1月には入京した。しかし、尊氏軍のあとを追うように上洛してきた北畠顕家軍に敗れ、丹波に逃れた。同年2月、尊氏は播磨を廻って再度上洛を企てたが、打出浜で新田・楠木軍に上洛をはばまれ敗走する。この時、逃げ込んだのが前述の福海寺(の前身)である。
九州まで逃れた尊氏は、ふたたび東上を開始、新田義貞は兵庫で尊氏の上洛を阻止しようとした。正成は後醍醐天皇の命によって新田義貞を赴援しようと湊川まで進出、しかし5月25日の戦いにおいて、討死する。
翌月、尊氏は光厳上皇を奉じて入京、弟を践祚、光明天皇の誕生である。三種の神器は後醍醐天皇が持っていたため、神器無しでの践祚であった。
ここに、大覚寺統の後醍醐天皇と持明院統の光明天皇が並立することとなり、南北朝が始まる。
正成は、湊川の戦いに出陣するとき、「千早城のときは、多くの兵が集ってきたのに、今度の戦いには親類でさえもためらっている。これは人々が天皇からはなれた証拠だ」と嘆き、また北畠顕家も、「顕家の諌奏状」として知られる、天皇を諌める文を書くなど、味方からも苦言を呈される状況下での建武の新政の終焉であった。
逆賊尊氏の誕生
室町時代は、正成が朝敵で、その子孫が朝廷から正式に赦免を受けたのは、200年以上のちであった。一方、尊氏が朝敵と呼ばれることもなかった。この流れが変わったのは、徳川光圀が南朝を正統とする『大日本史』である。『大日本史』では三種の神器の所在などを理由に、南朝を正統として扱ったが、徳川氏が、南朝とともに戦った新田氏にそのルーツがあることも影響していると言われている。
決定的になったのは「明治維新」である。前述のように「北朝は幕府と共存」、「南朝は幕府と対立」という考え方であった。明治維新における「尊王倒幕・天皇親政」という思想は、まさに南朝の考え方で、徳川幕府を力で倒した明治政府が、自らの正当性を主張するには、南朝を正当と見做さねば理屈に合わないとの考えであった。
この天皇の神聖・絶対化には、正成を忠臣の誉に、尊氏は逆賊に貶めなければならなかった。
京都時代祭の行列に、足利列が参加できるようになったのは2007年からで、ましてや楠公さんの神戸で、尊氏の足跡を探す方が無理というものなのであろう。
因みに、昭和7年、皇国史観の歴史家といわれる平泉澄氏が、昭和天皇に「楠木正成の功績」と題し御進講を行なっている。この時、天皇は「後醍醐天皇のおとりになった処置について、何か誤りはなかったか」とご質問をされた。「建武の新政における、不公平な恩賞(武士の不満)により、皇室は危機を迎えた」*2との認識からのご質問であったようだ。
尊氏が、逆賊かどうかは別に、室町幕府を開くという「時代の権力者」に上り詰めたのは紛れもない事実である。この遠因を遡ると「皇統の分断」であり、さらには「幕府と武士」「天皇/公家と武士」の分断が、尊氏という権力者を生んだ。
社会の分断が権力者を生む、近年でも同じことが起きている。アメリカのトランプ大統領である。
分断が生んだトランプ大統領、分断を生んだ新自由主義
2016年、大統領として選ばれた背景を、「現代アメリカ政治経済入門」*3は次のように記している。「レーガン以来の新自由主義的な経済政策によりドラスティックな産業再編とグローバル化が進められる下で、かつての『豊かな社会』 アメリカの象徴であった製造業労働者たちを主軸とする伝統的中産階級の没落とその不満が, トランプ政権誕生となった」。
この新自由主義の考え方を端的に表しているのが、ミルトン・フリードマンの言葉で、著書「資本主義と自由」*4の中で、「企業経営者の使命は株主利益の最大化であり、(中略)企業は株主の道具である」と述べている。
この新自由主義経済を掲げたレーガン大統領は、この活性化のために、企業への規制を緩和し、富裕層の税金を軽減、結果、工場は低賃金の外国に移転し、外国の安い製品を輸入し、企業は利益率を高めた。一方で、国内の生産労働者は職を失い、生産部門の労働者が民間被用者に占める割合は1960年から2019年までの間に42.4%から16.6%まで低下することとなった。*3
さらに株主価値重視の風潮から, 経営者は雇用の安定より, 短期的な収益性を重視するようになり、人員削減は、収益性の向上策の一環として採用され、その実行が経営者にとって多額の報酬に結びつくこととなった。
小泉構造改革の急先鋒であった中谷巌氏は、このような米国の現状を憂いていたが、サブプライムローン問題が起るに至り(2008年)、「市場経済は平和と自由を作り出すことはできない」と転向を決意、本人曰く「懺悔の書」として「資本主義はなぜ自壊したか」*7 を上梓した。この時期、オバマ大統領が選ばれており、中谷氏は「アメリカには、『大不況からの修復』『中産階級の修復』『リーダーシップの修復』が求められる」と指摘、オバマ氏に期待を寄せていた。
しかし、この「中産階級の修復」が改善されないまま、2016年を迎え、トランプ大統領が選ばれる結果となった。
資本主義の多様性、雇用重視への回帰か
「資本主義も大別すれば、その国の文化により、『株主第一』と『雇用重視』の形態があり、米、英国は前者で、企業には『株主利益』を最大化することが求められる。後者(日本、独、仏)は、共同体的労使関係が特徴、結果、後者は、雇用が拡大しているのに対し、前者は利益率は高いものの、雇用に関しては、維持ないし減少している。」とある。*5
投下資本利益率(ROIC)の重要性を説いたマイケル・ポーター氏は「日本の競争戦略」*6で次のように述べている。「日本型企業モデルである終身雇用は、企業の成長なくしては存続しない。不況時においてさえ従業員を解雇することを不名誉とする考えから、多くの日本企業は従業員の雇用を確保する目的で新製品を積極的に導入し、新たな分野への参入に懸命となる。このような選択は、株主が副次的なものとしてとらえられ、経営に対する影響力をほとんど持たないことから可能になった」。このような表現で、雇用を重視していた日本の経営者に、株主第一の米国型資本主義を取り入れるべきだと迫っていた。その一方で、2006年「競争優位のCSR戦略」という論文を発表、この中では「企業というのは単純に経済的価値の極大化のためだけに存在するのではなく、社会との結合を目指すべきである」と指摘、米国における過度な収益性追求に警鐘を鳴らしていた。
サイレント・マジョリティが声を上げ、トランプ大統領が誕生したことの影響か、米国経営者も、2019年8月、ビジネスラウンドテーブルで、「株主第一主義」を見直すこととなった。中谷氏の指摘から10年以上遅れての判断である。この影響か、2020年の大統領選では、ラストベルト3州(ペンシルベニア、ミシガン、ウィスコンシン)は民主党を支持、バイデン大統領誕生を後押しした。
しかし、米国定評のスピード経営にも関わらず、ビジネスラウンドの決定を一向に享受できないと感じた人たちは、24年選挙で共和党支持へと再び揺れる。これがなければ、ハリス氏が僅差で勝利していたはずであった。トランプ氏は、この状況を重視、「大統領は我々のために働いている」と感じさせる必要があると、「雇用をアメリカに戻す、そのためには関税を」と声高に叫ぶことになっているのであろう。
就任100日目の演説も、ミシガンで行なわれている、しかし、一方で、100日目の全米支持率は歴代大統領で最も低く(39%)、不満感も高まってきている。
トランプ氏のブレーンである「改革保守」のオレン・キャス氏は「私たちは、生産より消費に偏った米国を変えていこうとしています」*8と、消費者の不満は覚悟の上、とも思える発言をしている。
防衛・安全保障の一翼を担うとは
米国においても株主以外のステークホルダーを重視する企業は存在するので、逆に日本においても株主第一を標榜しても、一向に構わない。
しかし、20年ほど前の防衛白書には、「国の防衛は『民生の安定』『外交努力』そして『防衛力』が必要」と明記されていた。民生の安定が、国の安全保障の基盤であるとの考えで、雇用の確保、生活の安定が第一に求められていた。
当社は、「防衛力」のため防衛装備品を供給しており、「我が国の防衛、安全保障の一翼を担う」とその大義を謳っている。ならば、経営スタンスも「民生の安定」という基軸から、ぶれてはならないと私は考える。
またリーマンショック後の2009年2月、当社並びに当社の顧客企業が多く参加する経団連は「雇用の安定は企業の社会的責任であることを十分認識し、今後も、企業はこうした取組みを継続的かつ積極的に推し進めることを通じて、社会の不安を払しょくしていかなければならない」と意見書を発表している。
部長研修で「コア・コンピタンス経営」*8 を課題図書として学んだ。著者が何故、執筆に至ったか、初版は1994年、米国において製造業が衰退、雇用の削減が著しくなった時代で、その点を憂慮し、次のように記している。「大企業の失業は、グローバルな競争や生産性の劇的な向上のせいではないことが多い。会社が次世代に突入したにもかかわらず、変革すべきときに経営陣が眠っていた場合に失業が生じたのである。(中略)管理職の背任行為によって資源と能力をふんだんに与えられた企業が自滅する時に、高いコストを払うのは社会なのである」
米国の雇用の喪失は、グローバルな競争(中国)、生産性の向上(日本)という他責ではなく、自責として考えるべきで、その結果は社会的問題を引き起こす、との指摘である。
この指摘を、前述の「日本の競争戦略」の記述と比較すれば、会社は「社会の公器」か「株主の道具」か、スタンスの違いが透けて見える。
我が国の航空機関連事業の将来は?
従来の民間航空機、航空エンジン事業は、「株主第一を重視する米英」と「雇用を重視する日本(独、仏)」との合作であったと考えている。日本が短期的な資本効率を重視し、逆に米(英)が雇用重視に舵を切ったとき、このスキームは成り立たなくなる可能性がある。
トランプ氏は関税により自国の製造業復活を目指そうとしているが、一方で「容易ではない」との指摘もある*10。しかし「改革保守」と呼ばれる人たちの「生産重視」、サンデル教授の「生産者の尊厳重視」*11という考え方は、トランプ時代という一過性のものでもなさそうである。
今後いかなる道を辿るのか、注視していきたい。
(この文章は、5月に執筆していますので、発刊時には、状況が変わっている可能性があります。)
参考文献
1 須磨の歴史散歩 田辺 眞人 著 神戸市須磨区役所 2007年
2 皇国史観 片山杜秀 著 文春新書
3 現代アメリカ政治経済入門 編集者 河﨑 信樹 河音 琢郎 藤木 剛康 ミネルヴァ書房
4 資本主義と自由 ミルトン・フリーマン 著 村井章子 訳 日経BP社
5 脱・株主至上主義の行方(中) 資本主義・企業の多様性 重視
広田真一 2019年12月17日 日本経済新聞記事
6 日本の競争戦略 マイケル・ポーター 竹内弘高 著 ダイヤモンド社 2000年
7 資本主義は何故自壊したか 中谷 巌著 集英社インターナショナル 2008年
8 関税「改革保守」の狙い オレン・キャス 2025年4月3日 朝日新聞記事
9 コア・コンピタンス経営 .ハメル&プラハラード 著 一條和生 訳 日本経済新聞社
10 敗北するアメリカ エマニュエル・トッド 2025年2月25日 日本経済新聞記事
11 働く尊厳軽んじたツケ 世界の危機 2025年4月21日 朝日新聞記事





























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